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2018年2月22日 (木)

各務ケ原飛行場

飛行第五戦隊の歩みをたどるうえで、その揺籃期とでもいうべき各務原と立川の各飛行場の時代を避けるわけにはいかない。

そこで、とくに戦前の両飛行場について知るために下記の資料を読んでみた。①の3冊は各務ケ原飛行場の歴史をみるうえで欠かせないものであろうし、③は立川飛行場や立川市について多くのエピソードが紹介されており、その歴史の一コマ一コマを肌で感じることができる。
①『各務原市資料調査報告書』
  第29号「近代史料が語る各務野の歴史」(平成18年)
  第40号「各務原市の戦前・戦中・戦後史」(平成28年)
  第43号「各務ケ原飛行場100年史」   (平成29年)
②『立川飛行場史』(三田鶴吉 1976年)
③『立川飛行場物語 上・中・下』(三田鶴吉 1987年)
④『飛行場と立川』(田中繁 1974年)
⑤『立川市史研究 第10冊』(立川市史編纂委員会 1969年)

これからの数回分は、上掲の資料などの単なる読書ノートにすぎないけれど、自分なりに興味や関心をもった事柄についてだけ記してみたい。

所沢飛行場で設けられた航空第一、第二の両大隊は大正9年までに各務ケ原に移駐しており、第二大隊は主に偵察が任務であった。
陸軍飛行第五戦隊の前身となる「航空第五大隊」の創立・編成は、1921(大正10)年12月、現在の岐阜県「各務原市」にある「各務ケ原飛行場」であった。のちに立川飛行場へ配備されることが決まっていた「航空第五大隊」第一中隊要員78名は、航空第二大隊で編成され訓練を受け、翌1922(大正11)年11月に東京立川の新兵舎へ移った。この年、各航空部隊に組織改称があり、航空第五大隊も「飛行第五大隊」となっている。


「紀元二五八一年十二月十日、吾等七拾八名が各務原航空第二大隊に呱々の聲を擧げて、航空第五大隊創立兵の榮譽を負ひ、帝國航空界の発達を雙肩に荷ひし以来、伊吹山おろし肌を刺す朝、日本ラインの堤、櫻花爛漫たる夕、或は炎帝、威を逞する三伏、涼風溢るる長良の川に、鵜飼火点々として暗を照すをながめ、或は満目落葉枯草の波曠茫たる時、飛行場に航空の快哉を叫び、落陽淋しき郷暮の夕、和気藹々灯火の下に無限の友情を談じ、共に苦しみ共に樂しみ、身を練り術を修め、生死を同せんと誓ひて、飛行第五大隊の礎を作り、翌年霜月十日、名譽且重任ある近衛師團に配属せられて立川の新兵舎に移れり。(以下次回に引用)」

三田鶴吉さんは③『立川飛行場物語』(1987年)でこの文章を紹介している。孫引きであり、もともとは④『飛行場と立川』(田中繁 1975年)の「序」として引用されていたものである。書いたのは当時隊員であった石塚喜秀さんで、日付は大正12年11月、『飛行第五大隊元祖兵 除隊記念アルバム』より、となっている。各務野の風景などを詠じ、詩的な表現のなかにも創立兵としての覚悟や矜恃を綴っている。やがて訓練を終えた彼ら78名は立川へ去って行った。

各務ケ飛行場は、日本で二番目につくられた飛行場であり、現在も航空自衛隊岐阜基地として使用され、現存する日本の飛行場としては最も古いものである。
『立川飛行場物語』のなかで、立川飛行場のお父さんは岐阜県の各務ケ原飛行場、所沢飛行場はおじいさんにあたる、と三田さんは書いている。この三つの飛行場は、日本の航空史のはじまりを思い起こすうえでも忘れてはならないものである。

  *当時「各務原」は「各務ケ原」と表記されており、現在もJR高山線
        の駅名は「各務ケ原:かがみがはら」である)。
        ただし今の市名の読み方は、「かかみがはら」。
  *いずれ記すが、昭和になり「飛行第五戦隊」となった部隊は再び
    1938(昭和13)にここ各務ケ原飛行場に転入し、翌年柏飛行場
    移るまで教育部隊としての任務についていたことがある。

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