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2019年4月23日 (火)

艦長の回想記

父の乗っていた機帆船を2日間にわたって攻撃した英軍潜水艦(HMS SPITEFUL)の艦長が、戦時中の体験を回想記にまとめている。艦長の子息と連絡がとれたとき、この回想記のことを知り、彼をとおして取り寄せることができた。
父の乗った機帆船を攻撃したことは小さな出来事でもあり、この本にそのことが詳しく書かれていることは期待していなかったが、読み進めると、3頁にわたって攻撃の顛末が記されていた。このとき、敵(日本機)に攻撃され、沈没の危機もあったために艦長の記憶に強く刻まれたのであろう。
当時の2日間の様子は父の回想と潜水艦のパトロール・レポートをもとに、このブログでもすでにまとめてある(カテゴリー:「マラッカ海峡」参照)が、艦長自身の回想も合わせて見るべきだと思い、その回想を意訳にちかいけれども、ひとまず訳出しておくことにした。

Frederick H. Sherwood "It's Not the Ships..." p103-105
 「セイロンに来てから2回目となる哨戒任務の期間は、1944年6月21日から7月15日だった。哨戒する海域はスマトラ島の北部、つまりマラッカ海峡の北側であり、「H」エリアとして知られていたところだ。そこはひどい浅瀬ばかりで、まさに H つまりHell(地獄)だった。我々は海峡の北半分ぐらいのところに到達したが、ますます海は浅くなるばかりだった。
 6月28日午後、アル湾の岸に沿って進む9隻の小艇からなる船団を発見した。浅瀬のため船団にそれ以上接近することができなかったので、翌29日に若干深い場所を見つけて船団を待ち伏せすることにした。敵の船は小さく距離も相当あったが、その中の最も大きな船(註:父の乗る機帆船)に3発の魚雷攻撃を敢行した。しかし残念なことにどれも魚雷は命中しなかった。
 翌30日、艦砲射撃をすることにした。早く攻撃したかったが、2機の敵機が船団を哨戒していたので、なかなか機会がなかった。ようやく敵機がいなくなったのを見計らい、攻撃のために浮上した。
 我がスパイトフルの初期型レーダーはいつも誤ったパルスを発するオンボロだった。2回砲撃を行ったあと、そのオンボロレーダーの担当者が叫んだ。「敵機接近、距離40」。私はレーダーを見る余裕もなく潜航命令を出した。信号兵は生粋のロンドン子であるグレンフェル-ウィリアムズ(船内で彼だけが姓にハイフンのつく人物だった)である。彼が「敵機だ!」と叫ぶと、司令塔から要員が降りてきて、ハッチを閉める音がした。この付近は水深がわずか40フィートだったが、できるかぎり深く潜った。1分待ったが何も起きなかった。私は彼に「ほんとに敵機か? カモメでも見たんじゃないのか」と言ったとたん、強烈な爆発が艦を揺らした。グレンフェル-ウィリアムズは答えた。「艦長、カモメにしては結構でかい卵でしたね」。
 舵が動かなくなったのを除けば、数分間ライトが消え、隔壁のコルクが落下したぐらいでダメージは小さかった。すぐ舵を修理して潜望鏡を見ると、敵船団の方角からは小銃や機関銃の弾が次々に飛んで来た。敵は我々の潜む位置を正確に特定していたのだ。我々はさらに遠くまで退避し、射程距離から逃れた。銃弾が海面に当たり、飛沫の幕が彼我の間に立っていた。私はその光景を、潜望鏡を覗いていつまでも眺めていたのである。」

Photo_11
 Frederick H. Sherwood  with Philip Sherwood
   "It's Not the Ships... My War Years"   lifewriters.ca  2014

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