岐阜空襲 (6)
5月半ば、父方の親族と会う機会があり、父の弟(80代後半)のひとりから、体験した岐阜空襲の様子をすこし聞くことができた。
岐阜空襲は、1945(S20)年7月9日から翌10日にかけての深夜にあった。私の祖父母、父の兄弟5人、妹2人が実家に住んでいたが、戦時中兄弟は父を含め3人が従軍し、祖母は父が中国にいたとき病死していたので、空襲のあったときは祖父、父の10代の弟2人そして幼い妹2人だけの生活であった。
実家は岐阜市の中心部にあった。話を聞いた叔父は、当時国民学校高等科2年生で13歳であった。
空襲は岐阜市の西部から東部にかけて断続的に行われた。実家は千手堂にあったから、西の鏡島方面が燃え始めたとき、一家全員危険を感じて家を出た。まだ炎の上がっていない北の方向へ逃げ、長良川堤防を目指したという。空襲による火災が最も激しくなったときは、堤防からただその光景を眺めているしかなかったのであるが、他方、叔父のような国民学校(高等科)の生徒には空襲時の「動員」が予め負わされていたという。しかし着の身着のまま逃げてきたため、服装や準備が整わず、集合場所も不明であり、消火などに参加できるような状況ではなかったらしい。
実家は消失し、戦後3年目の1948年に家の再建が成るまで、粗末なバラック生活を一家は送ることになった。
中国広東付近の部隊にいた父の兄は、その後各務原飛行場の部隊に転じていたが、中国上海付近の部隊にいた弟とともに敗戦後早々と復員してきた。だが抑留中の父がシンガポールから実家に帰り復員完結となったのは、1947年1月のことであった。
父は戦時中の体験について私には多くを語り、その記録も残してくれたが、叔父の話では復員後に戦争のことを父は実家ではほとんど話さなかったらしいし、従軍した父の兄や弟も沈黙を守っていたという。戦後間もない頃は、家も焼かれ日々の生活をどうするかで追い詰められていた家族にとって、過ぎたことを振り返る余裕などなかったのであろうか。あるいは、敗戦によって激変した社会情勢のもとでは、たとえ家族の中であろうと、戦時中の体験や兵士であった過去の自分について語ることなどできなかったのかもしれない。
*母とその弟のこともメモしておく。
岐阜空襲の日、その日が誕生日だった17歳の母は、真っ赤に染まった南の空を郡上八幡で震えながら眺めていた。そして母の弟は15歳。満蒙開拓青少年義勇軍の一員として、満洲奉天(瀋陽)の車両工場でハンマーを握っていた。その叔父もまた、戦後沈黙を守っていたという。
そうした懐かしい話をしてくれた母はこの5月、風薫るなかを旅立った。
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