将校集会所(2)~ 飛五の機種改編 ~
将校集会所エントランス(旧各務ヶ原飛行場・現航空自衛隊岐阜基地)
Nov./2018
記:訂正更新(字句修正等)2020/07/01
将校集会所(1)承前
山下美明氏はその手記(*1)のなかで、「屠龍(キ45)」が飛五にはじめて配備された日のことを懐かしく次のように書いている。
《 昭和十七年三月下旬のある日、私は飛行第五戦隊の第二中隊長として、千葉県松戸町郊外にある松戸飛行場で帝都防空の任務についていた。早春とは名のみで、まだ吹く風の冷たい日であったが、この日に屠龍(二式複戦、当時はまだキ45といっていた)が三機、はじめてわが部隊に機種改編のため到着することになっていた。 》
《 空輸してきた須賀中尉たちと挨拶する間ももどかしく、すぐに未修教育を受けるための説明をはじめてもらったが、説明のあいだにも私の目はキ45に吸い寄せられていたのである。(中略)須賀中尉が説明をつづけるあいだに諸点検をおえたキ45は、燃料の補給をおえるのを待ちかねるようにして、さっそく私が第一番に飛ぶことになった。》
どこで受領されたのか氏は書いていない。しかし渡辺洋二氏によれば(*2)、この三機は川崎の岐阜工場のある各務ケ原飛行場で受け取ったものであり、その任務には第一中隊から須賀貞吉中尉、松井孝准尉、第二中隊から百冨貢准尉が各務ケ原へ赴いたという。あくまで想像だが、この時ひょっとしたら彼らはこの「将校集会所」にも立ち寄って休憩していたかもしれない。
この回想記は飛五に新しい機種が導入されたときの小さなエピソードであるが、受領のときの感動は戦後になっても山下氏にとっては忘れがたい想い出であったのだろう。実は屠龍受領から1か月後の1941(昭和17)年4月、米軍のB25による本土初空襲(いわゆるドーリトル空襲)があったとき、山下、須賀、百冨らの操縦する屠龍三機が松戸から飛び立ったものの会敵できすに終わっている(*1、*2)。
やがてその年の夏に飛五の全機が屠龍に機種変更となり、翌昭和18年に戦隊は柏から豪北方面へ移ることになる。そして1年後の昭和19年夏に飛五が南方から再び本土に戻ると、あらたに戦隊長として山下氏が着任し、愛知県の清洲飛行場を根拠地にして飛五は中京地区の防空任務につくのである。
なお上述の須賀大尉(最終階級)は「陸軍航空士官学校少尉候補者21期生」(*3)であり、彼と同じ21期生で、やはり飛五隊員だった岡部敏男中尉(最終階級)は、1944(S19)年5月27日高田勝重戦隊長のもとでビアク島沖に出撃している。この出撃を含め、ビアク島の戦闘に関わることはいずれ詳しく記してみたいと思っている。
また、樫出勇大尉も21期生である。彼は戦争末期に「屠龍」で本土防空にあたり、B29迎撃について貴重な回想録を残している(*4)。
参考
〇*1「偉大なる愛機「屠龍』で戦った四年間」 山下美明
『陸軍戦闘機隊』 光人社 2011年 所収
*初出は雑誌「丸」1970年3月号
〇*2『二式複座戦闘機「屠龍」』渡辺洋二 文春文庫 2008年
*朝日ソノラマ版(1989年)
〇*3『修武台の光と影』
(陸軍航空士官学校少尉候補者第二十一期生記念誌)
航空二一会 昭和58年10月
〇*4『B29撃墜記 夜戦「屠龍」撃墜王樫出勇空戦記録』 樫出勇
光人社NF文庫 2005年
将校集会所前の、たぶん山茶花。
この年の山茶花は至る所で開花が早く、
しかも花が多かった。
幹が太く、かなりの老木と見える。 Nov./2018