満蒙開拓青少年義勇軍(1)
田中中隊之碑「拓魂碑」 (岐阜公園 2018年撮影)
〈ちょうど2年前の記事「満蒙開拓青少年義勇兵」(→★)で、母の弟が14歳のとき義勇兵として満州に派遣されたことに触れました。その記事の続きです。生前叔父からは当時のことを詳しく聞く機会はなかったのですが、母の話と資料(『岐阜県満洲開拓史』 岐阜県開拓自興会 1977年 )などをもとにして当時の足跡を辿ってみます。〉
叔父の所属していた部隊は「満蒙開拓青少年義勇軍」の「岐阜郷土 田中中隊」であり、茨城県内原の訓練所では「岐阜第44中隊」の名称がつかわれた。そもそも満州に青少年の義勇軍が送られたのはなぜか。
1932(昭和7)年の満州国建国以来、関東軍が中心となって農業移民事業を取り仕切っていたが、1937(昭和12)年、日中戦争が始まると移民計画は滞った。そこへ同年「満蒙開拓義勇軍創設」の建白書が出され、青少年を開拓団の防衛や開拓事業の推進のために送り込もうとしたのである。ただし義勇軍に関する詳細はここでは触れない。あくまで叔父の属した義勇軍についてのみメモする。
戦争末期1944(S19)年3月、14歳の叔父は和良村の小学校を出てすぐに義勇兵となったが、母の話では、志願と言うよりも学校や村の推薦というかたちをとり、ほぼ強制だったという。
茨城県の内原には訓練所が3箇所あった。叔父は「内原訓練所河和田分所」に入所した。なお29歳の田中隊長は妻を伴い、他の幹部四人のうち、33歳と31歳の二人は妻・家族も同行し、子どもは5人(4歳二人、2歳二人、1歳一人)で、他に24歳の応召者二人も加わった。一般隊員(訓練生)は14歳から17歳までの男子で、岐阜県各地から集められた227名であった。
その年齢層をみると、14歳208名、15歳8名、16歳10名、17歳1名となっており、今で言えば中学2年生ぐらいの少年が大半を占めていたことになる。出身地は、郡上郡が42名で最も多く、恵那郡、土岐郡、加茂郡がいずれも30名を超えている。
次回、叔父の足跡について田中隊長の日誌などをもとに詳しく辿る。
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