Ⅱ 志願

2017年1月12日 (木)

別れ - 永訣 -

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      絵葉書:名古屋港(昭和初期か)

父たちの部隊は、豊橋を出たあと名古屋の「熱田神宮」に立ち寄り、名古屋港へ行く。このとき、神宮の大鳥居横では母、そして名古屋港では父が見送りに来ていた。

昭和15年12月8日朝、豊橋を発った我々は「熱田神宮」に向かった。もちろん沿道は家族や一般の見送り人でいっぱいだった。参拝・休憩して行進を開始したときのことである。ちょうど南の大鳥居を出るとき、その柱の周りにいた多くの見送り人を横目でひょいと一瞥すると、たしかに母と叔母がおり、視線が一瞬合ったのである。手の届きそうな距離だったが、行進中でもあり、何も言葉を交わすことはできなかった。母の淋しそうな表情だけは今も目に焼き付いている。これが永訣であった。
 やがて私たちは名古屋港の埠頭に着いた。港に集結していたのは、愛知・岐阜・静岡の出身者で、私たちと同じ地域に派遣される予定の歩兵・工兵・砲兵・輜重の各兵士たちである。ここでも多数の家族や見送り人でいっぱいだった。
 乗船したのは輸送船大日丸」約五千㌧であった。総員が乗船完了したのは午後4時頃だったが、日は短い頃だったにもかかわらず、まだ明るさは残っていた。汽笛と共に船が埠頭から離れるとき、甲板にいた私から50㍍ぐらい離れたところに見送り人の一団があり、その中にひときわ大きな日章旗を振る父の姿を見ることができた。父は何かを叫んでいたが聞き取れなかった。それでも私は父が見えなくなるまで精一杯両手を振り続けた。

この日から、父は約6年間兵士としての生活を続けることになる。ちょうど1年後に米英との戦争が始まり、やがて降伏することなど予想もしていなかった。2年ほどすれば除隊して新しい人生を歩めるだろうという希望をもっての出征だった。

*「大日丸」について(「戦没した船と海員の資料館」のWebサイト等より)
1922(T11)年4月に三井の貨物船として竣工。最初の船名は「伊吹山丸」。主に北米航路や援用不定期船として運航。1935年に板谷商船に売却されてから「大日丸」になった。陸軍に徴用されて兵士・捕虜の輸送にあたり、1942(S17)年にはシンガポールから連合国軍捕虜を台湾や本土に移送した。1943(S18)年10月6日、高雄からマニラに向け出港。8日ルソン島北端ボヘアドール岬西北西150km付近において「米軍潜水艦 Gurnard (SS-254) 」の魚雷攻撃をうけ沈没。乗船部隊2,025名、船員64名の計2,089名が戦死。
 

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2017年1月11日 (水)

出征 - 豊橋へ -

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                2012年1月撮影

愛知県豊橋市の向山緑地公園に「豊橋工兵隊の碑」がある。当時の訓練用トーチカの上に戦後になって碑が置かれた。かつての軍都豊橋は、陸軍の留守部隊も置かれており、父の軍歴はここから始まった。向山は陸軍の演習場だったが、父は入隊後1週間しか滞在せず、その後名古屋港から大陸に出征した。もうすぐ19歳になるころのことである。所属部隊は当時中国山西省大同にあった「第26師団工兵第26連隊」だった。この連隊は、父が別部隊へ離れた後、かの「レイテ島」に派遣され、激戦で全滅した連隊であった。

1940(昭和15)年12月1日父は入営し、12月8日には名古屋港から大陸に向かった。

入隊したのは大陸派遣の留守部隊であり、我々約150名は第26師団「工兵第26連隊(のちにレイテ島で全滅)」の要員となっていた。我々は基礎訓練を受け始めたが、団体行動が一応とれる程度のヒヨコの新兵であった。派遣先は入隊当時には当然秘匿されていたが、X日に中国に派兵されることは誰からとなく自分らに伝わった。やがてX日が12月8日(大東亜戦争勃発の1年前)であり、派遣先は北支方面の「大同」であることが、すでに噂として皆に知れ渡っていた。北支から初年兵受領に来ていた数名の将校・下士官から非公式に親に文書で伝わっていたのである。

P1120182*上掲の碑の正面中程にあるプレート
工兵の兵科色は明治中頃から鳶色(赤みを帯びた茶色)であったことから、この鳥は鳶ではないかと勝手に想像している。
鳥の足は、工兵の最も大切な武器であった円匙(スコップ)と十字鍬を握っている。

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2017年1月10日 (火)

母の願い

徴兵された兄は、実は「通信兵」になりたかったらしいが、実現しなかった。父は兄の影響を強く受けていたので、「陸軍工科学校(後の兵器学校)」の受験を試みた。その真意はよくわからないが、徴兵される前に人よりはやく軍役を終えてしまいたいという考えは持っていた。徴兵されることで、将来の人生設計が大きく影響されるのを避けたかったのだろう。だが、付け焼き刃の準備では、高倍率の難関を克服することはできなかった。

≪試験に失敗した後、私は決断した。家族にも職場にも隠したまま軍へ志願することにした。すでに試験の前から眼病の治療と扁桃腺の手術を終え、『軍人勅諭』もすべて暗誦できるようになっていた。希望は「工兵」にした。今持っている技術を活かすことができれば、過酷だと聞いていた軍務も少しは楽になるだろうと思ったからだ。
 だが、当時志願するには親の承諾書が必要だった。父や母が同意してくれる見込みは無いと思っていたから、他の多くの志願兵がしたように、私は印鑑を盗用し手続きを終えた。
 昭和15年9月初旬、父が仕事で留守の時、市役所の兵事掛から書類が届けられ、母が受け取った。父が帰宅すると、私は二人から激しい叱責を受けることになった。とくに母は厳しい言葉を私に浴びせた。
 「お前は極道者や。巡査と下士は極道者や。お前は親不孝者や。」
親類や近所の人にも何と言えばいいのか、こんな子どもに育てた覚えはない、と二人は夜遅くまで嘆いたが、私は全く反論できず、ひたすら嵐の収まるのを待つだけであった。≫

今さら志願を取り消すこともできず、結局両親とも諦めるよりほかはなかったのだが、巡査と下士(職業軍人)を志望することに、これほど親が反対した理由について、私は遺稿を読んだときよくわからなかった。
おそらく、親の死に目にも会えない不孝者になるからかもしれないが、私はむしろ別の背景を思った。
以前読んだ兵士に関する本に、関西地域は下士官候補者が極端に少なかったと記してあった。土地柄なのか、都市部の傾向なのかは不明だが、岐阜の西濃地区はもともと関西圏からの影響が大きかったという。いずれにせよ、すでに大陸では戦争が激化していたことを考えると、人の嫌がる軍隊にすすんで志願することを親が許すはずはなかったのである。その後戦地で母親の訃報を知った父は、彼女の意向に背いたことを晩年まで苦しんでいた。

*「陸軍工科学校(後の兵器学校)」
 当時の受験参考書を調べてみた(昭和11年の受験案内)。昭和9年の採用人員150名に対して志願者は約8,400名。体格不合格者、不参加者を差し引いた学科試験受験者が2,300名余り。一般受験者の他に陸軍部内からの受験者もあった。戦時中は志願者が万単位となったという。試験場は本土各地・朝鮮・台湾・関東州・満州国・天津を含め約50か所。身体検査合格後に学科試験を実施し、その内容は高等小学校卒業程度(国語・作文・算術・地歴・理科)であった。

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2017年1月 9日 (月)

兄の出征

軍に志願して出征することになった経緯について、父は詳しく書いている。
2回に分けて、志願するまでを辿ってみたい。

父が高等小学校を卒業したのは、1936(昭和11)年であった。高小に進んだころから、体調の悪かった母に代わって小さな弟や妹の世話をしたり、家業の屋根工事を手伝うなどのため、学校は休みがちだった。そうした貧しい大家族を支えるためには、中学へ進学する夢も諦めなくてはならなかった。
卒業後、父親や知人のすすめで、当時岐阜市内で唯一ボイラーを製造していた小さな町工場に就職することになった。日給50銭(就業時間:朝7時から夜7時まで)は、すでに印刷会社に勤めていた兄の収入と共に家族にとっては大切な収入源であった。

その頃私たちの耳には、静かに、だがハッキリと軍靴の音が近づいていた。学校を終えた翌年の昭和12年には盧溝橋事件があり、岐阜の部隊も大陸の戦線に加わり、日毎に戦死・戦傷者の数が増えていった。
 家族に悲しい出来事があった。昭和13年11月、幼少期より脊椎カリエスの難病のために自宅で療養し、通学もできなかった六男が11歳で亡くなり、家族は皆悲しみに沈んだ。彼は幼少期から頭脳明晰であり、病気にもめげず明るい性格であったから、皆が彼を慈しみ、大家族であるにもかかわらず、自然に静謐さが保たれた家庭となっていた。だが、次第に近づく軍靴の音は、平和だった我々の家庭生活を次第にかき乱していった。

印刷会社に勤めていた兄(長男)は、1939(昭和14)年12月に徴兵された。
入隊したのは名古屋城内にある「第3師団歩兵第6連隊」であり、そして翌年4月には南支「広東」付近に派遣されていった。宣戦布告なき戦争状態は長期化し、昭和13年の「国家総動員法」や経済統制によって、父の工場も材料の鉄板調達さえ困難になっていた。

私はこのころの時代の雰囲気に馴染めなかったし、自分の行く末についても何となく不安や苛立ちをおぼえるようになった。
 いつも起居を共にしていた兄がいなくなったことは寂しかった。今の仕事にこれといった不満はないが、自分の将来に希望や夢を見出すことが次第に難しくなっていった。やがて自分も徴兵されて戦場に駆り出されることになるだろうと考えると・・・

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歩兵第6連隊第10中隊兵舎
 犬山市:明治村2015年撮影

戦後は名古屋大学文学部の三号館として使われていた。現在は愛知県犬山市の明治村に移築され、内部は改装されて当時の兵舎の姿を見ることができる。

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