Ⅲ 大陸

2017年1月21日 (土)

日本初空襲と浙贛作戦

実は父の留守中に、独立工兵第53大隊は作戦出動していた。もちろんチチハルにいた父はそのことを全く知らないままである。またしても「不思議なことに」と書いているが、もう2度も父は作戦から外れることになったのである。

1942(昭和17)年4月、内地では驚愕的な出来事が起きていた。米軍のB-25による日本初空襲(The Doolittle Raid)である。詳細は省くが、日本近海までアメリカの空母が近づき、そこから発進した十数機の爆撃機が日本各地を空爆したのである。爆撃機の着陸地などで中国と連携していたため、浙江省などの中国軍飛行場破壊を主な目的として4月末に浙贛(セッカン)作戦が支那派遣軍に下命された。海軍もミッドウェー島攻略戦を早め、やがて大きな損害を受けることになる。
独立工兵第53大隊は、第13軍の指揮下に入り、開封から杭州方面へ移動し、「諸曁(ショキ)」を拠点にして、主に道路の応急補修や架橋を主な任務とした。しかし当初は豪雨に見舞われ、堤防決壊や道路寸断が多く、橋は何度架けても流されるという状況であった。作戦後半は、各中隊ともに兵站戦確保と維持のため、諸曁と義烏の間の道路整備を続け、作戦自体は9月末に終了した。

1942(昭和17)年12月、大隊の隊員の多くは関東軍を離れ、新設された陸軍「船舶工兵第10連隊」要員となって、すぐさま「上海」に移駐することになった。

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2017年1月20日 (金)

下士官候補者隊

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              絵葉書:斉斉哈爾駅(チチハル)駅

 

1942(昭和17)年6月から11月まで父はチチハルの工兵下士官候補者隊にいた。
それまでの厳しい部隊生活と異なり、内務はほぼ自主的であったため、少し余裕のある生活ではあったようだ。
同じ班の同僚が、「関特演」と称する動員のことを話してくれたという。前年(1941年)の6月に始まったドイツとソ連の戦争に呼応し、ソ連との開戦に備え,満洲に大動員が行われ、関東軍は3倍近い兵力に増強されたのである。動員にともなって対戦車戦の演習にも参加したという彼は、実戦さながらの不気味な威圧感に恐怖すら感じたらしい。

座学や訓練の続いた候補者隊で、ある教官の話が印象に残っている。いわゆる私的制裁の撲滅のことである。当時すでに私的制裁の悪弊は軍内部でも問題視されていたし、表面上は禁止されていたのである。しかし実際は黙認されていた。私らも初年兵のころから何とかならないものかと思ってはいても、解決の糸口は見つからなかった。この教官の話も結局は建前論だったのだが、将来下士官として兵を指導する立場になる我々に改善を期待するという熱意だけは受け取ることができた。それ以来、理不尽な暴力だけは絶対許さないという信念は私なりに軍隊生活で貫いたと思っている。しかし実際のところ、その根絶は難しいことであった。≫

娑婆と隔絶した(させられる)軍隊の、とりわけ内務班の厳しい日常は、私が幼い頃から父がよく話してくれた。大同の初年兵時の苦労話は今も忘れることができない。その一方、下士官となった父がどんなふうに初年兵から見られていたのか、気にはなっていた。戦友会誌に当時初年兵だった方の手記があり、助教だった父のことを「温厚な○○軍曹」との記述を見つけた。軍服を着た父がどんな人であったか私は知らないけれども、あの「温厚な」という言葉を見た私は、私の知っている父と同じだ、と愁眉を開く思いがしたのである。

1942(昭和17)年11月、チチハルで陸軍兵長となった父は原隊に復帰する。しかし、もとの開封ではなく、部隊は蚌埠(バンプー)に移っていた。

12月に陸軍伍長となった父は、分隊附き下士官としての役割を担うことになった。

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2017年1月19日 (木)

「関東軍 工兵下士官候補者隊」(満洲・チチハル)

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   絵葉書:奉天駅(現在の瀋陽駅)
 チチハルに向かう途上、奉天に立ち寄る。

 

渡河工兵として、開封で激務をこなしていたころ、中隊人事掛の准尉から下士候補のすすめがあった。人よりはやく軍役を終わりたいと思っていたにもかかわらず、米英との戦争により除隊の見込みも失われ、母の死もあり、これからの人生は全く見通せないことになっていた。あれこれ考えた末、准尉の意向に従うことにした。
 1942(昭和17)年、5月1日、私は陸軍上等兵になると同時に、満洲国斉斉哈爾(チチハル)にある「関東軍工兵下士官候補者隊」に入隊することになった。

他の部隊の候補者数名とともに、父は遠く満洲のチチハルまで向かうことになった。下士候補に選抜されたことで、志願に反対した亡き母の意向に全く反する道を父は進んでいったのである。時勢の激変があったとはいえ、学歴のない父にとってはこの選択しかなかったと思われる。
チチハルへの途上、父は「奉天(現在の瀋陽)」に立ち寄っている。戦友から奉天に住む親族に品物を届けるよう頼まれていたからだ。1942(昭和17)年の前半といえば、東南アジアの日本軍が破竹の勢いで進軍していたころである。国民も兵士も連戦連勝のニュースに酔いしれていたのだが、父は奉天に立ち寄ったとき感じたある「違和感」について細かく書いていた。

依頼された品物を届けたあと、腹が減ったので仲間と奉天の日本人経営の寿司屋に入った。
 このとき5月に食べた寿司は、いつもと変わりないシャリ、つまりコメだけのものだった。実は半年後、チチハルから帰隊する11月にも同じ寿司屋に立ち寄ったのである。店の主人と世間話をしながら寿司を食べていたが、シャリの舌触りが妙だと思い主人に聞くと、大豆を混ぜているとの返事だった。「大豆の寿司とは珍しい」と皮肉を言うと、「営業用に使うコメは節約しろ」といわれて困っているらしい。他の食材も食糧統制が厳しくなりつつあるとのことだった。糧秣が無くては戦争などできない。実のところ戦況はかなり厳しくなりつつあるのではないか。このときすでにそんな不安のようなものを感じていた。

事実、父がチチハルで半年を過ごしている間、戦況は大きな曲がり角にきていた。

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2017年1月18日 (水)

渡河工兵

単に「兵士」といっても、その役割は多彩である。
とりわけ先の大戦における日本の「工兵」という兵科(兵種)の役割に限っても、私なりに調べてはみたけれど、その多様さにはただ驚くだけである。父が担った工兵としての役割を振り返ると、刻々と変わる戦況に振りまわされ、次々に新しい任務を担わされた様子がわかる。中支「開封」で関東軍の工兵大隊に転じた父は、当時の多忙な日々や軍の混乱ぶりを記している。

「野戦工兵」だった我々には、あらたに「渡河工兵」の役割が与えられた。その任務は河川やクリーク(運河)用の小型舟艇を操り、歩兵を敵の正面に上陸させることである。
 この小型舟艇を機動的に用い、陸上で移動させるためには是非とも貨物用のトラックが必要だったが、それも含めた必要な機材は補充半ばのままであった。しかもこの工兵隊は、各地から急に寄せ集められた俄仕立ての部隊であり、情けないことに、部隊に必要な将校さえまだ着任していないため、とりわけ実務を担う下士官にとっては、おそらく地獄のような日々だったに違いない。「渡河工兵」の任務に必要な兵士への基礎的教育なども二の次とされるなど、全く以てお粗末きわまりない有様だった。部隊改編による急激かつ慌ただしい状況の変化は、我々を苦しめ、解消できない疲労感が残る過酷な日々となった。

工兵は、必要な機材がなければ全く意味のない兵士である。機材を用い、工夫改良するという点では、ある種の合理主義や技術が求められるから、工兵は単なる精神力だけでは務まらない。まして新任務のための教育が後回しでは、お話にならない。
遺稿には、しばしば元兵士にありがちな勇ましい言葉や精神主義・大言壮語が見あたらないのは、かつて職工だった父の、ある種の冷めたものの見方のゆえだろうか。

すでに出征から1年半近くの月日が流れた。やがて父に軍隊生活における大きな転機がやってくることになる。

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2017年1月17日 (火)

関東軍

大同に来て1年過ぎた。作戦出動していた本隊も大同に帰隊し、連隊は普段の業務に戻った頃、突然衝撃的なニュースが飛び込んできた。

1941(昭和16)年12月8日、日本が米英に宣戦布告したのである。辺境のこの地にも鋭い緊張感が走ったのはいうまでもないが、しかしすでに戦地に身を置いている私には、与えられた業務を淡々とこなすだけの日々が続くだけであった。
 12月の今、開戦のことよりも我々にとっての関心事は、後輩の16年兵がいつ入隊してくるかだった。予想したとおり、戦況の激変によって16年兵の入隊は遅れ、翌1942(昭和17)年2月になってしまった。これで晴れて我々15年兵は2年兵になったが、初年兵の期間は長かった。であれば、13年兵はこのとき晴れて除隊となるはずだが、なんと保留(つまり即日再召集)されるという事態となったのである。さらにこれに追い打ちをかけるように、3月には部隊の再編成が行われ、我々の連隊の大半は、関東軍の管轄下に置かれ、「関東軍独立第5旅団独立工兵第53大隊」へと転ずることになった。
新しい駐留地は、中支「開封」であった。このとき13年兵はようやく除隊されたものの、彼らが部隊を去る日、14年兵の一部によって手酷い意趣返しがあり、貨車に積まれた13年兵の新品の荷物袋や鞄が無残に切り裂かれていたそうである。あくまで一部のことではあったが、戦況が厳しくなりつつあることや、除隊の見通しが立たなくなった苛立ちもあり、これまで13年兵から受けた仕打ちへの激憤を晴らしたものと思われる。

これを読むと、軍隊内で兵士が置かれている状況、たとえば古兵と新兵の関係、除隊にまつわる悲喜劇などが見えてくる。遺稿全体をとおして、ほとんど個人名は出てこないし、父の当時の心の動き、喜怒哀楽は比較的抑え気味に書かれているが、兵士の本音は少し読み取ることができる。それにしても、大陸の戦場にいた父は、日本が米英に宣戦布告したというニュースをこのときはまだ深刻に受け止めていないようだ。やがて自分が南方戦線に送り込まれる運命にあることなど、全く予想していなかったのだろう。そもそも陸軍にとって米英との戦争は、基本的に海軍が担うものと考えていたらしいから。

さて、関東軍の工兵大隊に転じた父たちには新たな任務が与えられることになった。

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2017年1月16日 (月)

母の手紙

戦地で母の死を知らされたことは、私がまだ幼い頃によく聞かされた話でもあったし、父は晩年になってもときどき悔恨の表情を見せることがあった。

10年前、父の遺品を整理していたとき、1冊のノートが出てきた。昭和30年頃のもので、当時の食費、餞別の金額などとともに赤ん坊だった頃の私の落書きもあった。なぜこの汚れた雑記帳だけが遺されていたのか最初は不思議だった。
見ると、その最後の頁には、判別が難しい文字で何事かが記してあった。頁の下の方には「○○(父の兄の名前)へ宛てた母の手紙」とあり、父自身が書いたと思われる「意訳」も次の頁に記してあった。原文を下に記す。なお、母は家業の手伝いもあり、十分学校に通うことができず、文字の読み書きも不得手であったという。

 『おまエに いたいコとがあるが 
  むねがセまりて いエないで カキました
  おやとして なにもをまえのよろコぶコとをしてないで 
  さぞおコるでしよ カにしてくれ 
  どんなコとがあでも しとりでやれるとをもうな
  カらだわ わカれていても ココろわ一つ
  おまエとは (不明2文字) わしとコカな しとりとをもうな 
  ははわ おまエのくるまつ 
  カけないてでカ カいたで ヤからんで さとてくれ
   またカきたいコとガあるガ カけなでをきます
  ともだチにすカれてくれ
  セけんのしとに はじをカいてくれな
  コれわ ははのたのみ     ひとにみせて くれるな 
                       (空欄)月二十日』

父の意訳をもとに、私なりに読んでみた。

『見送りの時、お前に言いたかったことがありましたが、思いが込み上げてきて何も言えなかったので、手紙で書きました。これまで親としてお前の喜ぶようなことを何もしてきませんでしたから、さぞ怒っているでしょうがどうか堪忍してください。たとえどんな事があっても 一人でやれると思わないでください。体は分かれていても心は一つです。お前は私の子なのだから一人きりだと思わないでください。母は、お前が無事戦地から帰って来るのを待っています。文字を書けない手で書いたので 分からないところはさとってください。まだ書きたいことがありますが、もう書かないでおきます。友達に好かれてください。世間の人に恥をかくようなことはしないでください。これは母の頼みです。  
人には見せないでください。    (空欄)月二十日』

父の兄が召集された直後に母から送られた手紙だと思う。戦後になって、何かの折に兄が手紙を父に見せ、それを父が筆記したものであろう。父にとっては、まるで自分に出された手紙のように思ったのかも知れない。
しかも父は戦後になり、母親が「極道者や」と言ったもうひとつの職業に就くことになった。それを考えると、父の悔恨の根深さは、もう私には推し量ることはできなくなる。

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2017年1月15日 (日)

訃報

第一期の初年兵教育は、1941(昭和16)年4月末には終わった。
その後も所定の教育は続くが、同年6月、父は陸軍一等兵となった。ひとまず兵士として認められたことになる。
その後、6月~8月にかけての記述は前後関係や場所がハッキリしないところもあるが、

6月ごろ、  「将校斥候」の一員となり、外蒙の国境偵察(場所は五原?)
6月~8月  大同からさらに西の「包頭」の黄河で「渡河訓練」

とある。そして9月になると。連隊は「河南鄭州攻略戦」に参加するために南下する。
しかし、「不思議なことに」と父は書いている。なぜか自分だけが大同に残留となった。戦友は皆出動したのに、自分はなぜ残らねばならないのか、ある意味では屈辱にも似た思いをしたらしい。代わりに与えられた任務は「大同鉄橋」の警備だった。

≪任務は大同鉄橋の警備である。下士官1名以下1分隊が、兵舎から橋までの約4㌔の道のりを毎日徒歩で往復した。敵のゲリラ活動から橋の安全を守るためだが、とても単調な毎日の繰り返しだった。一日数本の列車が鉄橋を通過するだけである。汽笛と共に車輪とレールが奏でるリズミカルな音がときどき近づいてくると、やがて流れ去る風のように列車も音も消えてしまう。何事もなかったように静かになった鉄路を眺めながら考えることといえば、心配をかけた父や母、小さな弟や妹を懐かしく思い出すことであった。≫

そんなある日、突然大きな不幸が父をおそうことになる。

≪9月下旬、私は1枚の葉書(手紙?)を受け取った。その日の歩哨勤務は何かと雑用も重なり、目の回るような慌ただしい中で受け取ったために、読みもせず、すぐ軍袴のポケットに入れ、夜になっても葉書のことは忘れてしまった。
 翌日、1日の歩哨勤務が終わって隊に帰ると、洗濯を始めたときにポケットに手を入れた。葉書のことをすっかり忘れていた自分に呆れつつも、無造作に二つ折りになったそれを開くと、父からの便りであった。≫

母は9月16日に亡くなっていた。病死であった。まだ40歳半ばの母が急死することなど予想もしていなかった父は、激しい動揺と悔恨の念に苦しむことになる。
あのとき母が、「お前は極道者や」と自分を叱責したことは、予言であったとさえ思い、志願したことを強く悔やんだ。自分の不孝を母に詫びることさえ、もうできなくなってしまった。

≪翌日、上官の配慮で、大同市内の本願寺派寺院に行き、供養してもらい法話も聞いたが、悲しみと後悔の念はかえって増すばかりであった。≫

ところで、戦後になってからのことであるが、出征する兄に宛てた母の手紙を父が兄から見せてもらったことがあった。次回はそのことを書いてみたい。

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2017年1月14日 (土)

初年兵教育

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   豊橋:入営時の集合写真(最後列左から2人目が18歳の父)
   初年兵35名、最前列には士官・下士官等が並んでいる。

 

遺稿に記されている大同で受けた初年兵教育の詳細は、呆気ないくらい簡潔なものであった。実は、私が幼少期の頃から父は戦争体験をよく語ってくれていた。この遺稿よりも語ってくれたことのほうが何倍も多かったし、今も記憶に残っている。とりわけ初年兵教育の様子は、私の記憶に今も強く刻み込まれているが、遺稿では下記のように極めて短いものであった。

各兵科共通の戦闘訓練が約3か月続いた。軍隊では最も過酷な一期の初年兵教育である。失敗や不備があれば容赦なく鉄拳制裁があり、内務では言葉遣いや日々の生活態度にいたるまで厳しい指導が行われた。ただ、入営前には『軍人勅諭』をすでに暗誦できていた私にとって、ひとつの難関は越えているという安心感はあった。それでも、もともと足腰が弱かったために、とりわけ行軍訓練は辛いことであった。
 もちろん「野戦工兵」として必要な築城訓練なども徐々に組み入れられ、やがて塹壕、鉄条網、道路、橋梁、爆薬などを設営(同時に解体も)する技術の習得が始まった。要は軍隊の中で土木・建築・解体工事をしていたのである。歩兵などとは違い、銃器の代わりに「円匙」と「十字鍬」が我ら工兵の持つべき第一の武器であった。

多くの元兵士は、「軍隊は外に敵、内に鬼」だったと記している。戦場における無謀な命令や内務での私的制裁などの実例は、ここであらためて記す必要もないであろう。
育った家庭環境もあったのだろうが、父は暴力について、それがいかなる場合のものであっても決して許されないことだ、と常々私に語っていた。とりわけ軍隊を経験したからだったのかも知れないが、大家族であるにも拘わらず、静謐な家庭で育ったことも大きかったのだと思う。なお、当時の軍隊内で「私的制裁」を無くそうとした動きもあったことは、のちにチチハルの下士官候補者隊に父が入隊するところで触れることにしたい。

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2017年1月13日 (金)

山西省「大同」

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       絵葉書:右下に「支那事変」の文字
           大同城北門、父が警備した大同鉄橋

1940(昭和15)年12月8日に名古屋港で父たちを乗せた大日丸は、瀬戸内海に入った。定かではないが、途中で広島・宇品を経由したかもしれないと父は言っていた。玄界灘を通過し、やがて渤海湾に入った。12月16日、天津の大沽(太沽)に上陸した。その後兵員輸送の貨物列車に乗せられ、北京を経由し、山西省大同に着いた。12月19日夜のことであった。

そこは内蒙古の極寒の地であった。町はすでに軍が制圧しているとはいえ、戦地であることに変わりはない。我々は大同駅から人家の少ない夜道を粛々と20分ほど歩いた。着いた部隊兵舎は敵が使っていたものらしい。この日から数ヶ月、軍隊で最も厳しく辛い初年兵教育が始まったのである。私は「工兵第26連隊第二中隊」へ配属された。
 大同は、北京から約400㌔西に位置する。日本人も千人以上は住んでいるといわれた。城外には万里の長城の一部が接し、学術的にも有名な雲崗石仏、無煙炭で名高い大同炭鉱をもつ山西省第二の要衝である。京包線が郊外の温河を渡る大同鉄橋は、1938年に敗走する敵が橋の中央部を破壊したため、工兵隊が応急修理し、現在は我が工兵連隊が警備と保全を担当していた。
 冬は零下20度にもなるが、雪は少ない。夏冬問わずゴビ砂漠から黄砂の嵐が来襲して人や家畜を苦しめる。ときには食事にも砂が混じり、うんざりすることもあった。

外征した日本兵は、その大半が「外国旅行」を初めて経験したともいえる。目的は観光ではないにしても、内地とは異なる気候や風土、文物や生活様式に驚くことは多かったに違いない。だが、のちに南方各地も転々としたにもかかわらず、父の遺稿は大同以外の土地について、詳しく記すことはなかった。そして現地の人々との交流は随分多かったにちがいないのに、それも全くといっていいほど記されてはいなかった。
父の記憶を辿るには、文字だけではなく、地図や写真、文献史料がもっと必要だと思った私は、父が残した戦友会誌だけではなく、絵葉書や地図、文献史料を探し始めた。


*当時の大同について
 父が大同に来る2年前の1938(昭和13)年、大同に滞在した探検家菅野力也の記録では、日本人2,647名、日本人小学校児童114名、日本旅館・料理店など48軒、中国人7万人であった。(Webサイト「謎の探検家菅野力也」の記事参照)

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