日本初空襲と浙贛作戦
実は父の留守中に、独立工兵第53大隊は作戦出動していた。もちろんチチハルにいた父はそのことを全く知らないままである。またしても「不思議なことに」と書いているが、もう2度も父は作戦から外れることになったのである。
1942(昭和17)年4月、内地では驚愕的な出来事が起きていた。米軍のB-25による日本初空襲(The Doolittle Raid)である。詳細は省くが、日本近海までアメリカの空母が近づき、そこから発進した十数機の爆撃機が日本各地を空爆したのである。爆撃機の着陸地などで中国と連携していたため、浙江省などの中国軍飛行場破壊を主な目的として4月末に浙贛(セッカン)作戦が支那派遣軍に下命された。海軍もミッドウェー島攻略戦を早め、やがて大きな損害を受けることになる。
独立工兵第53大隊は、第13軍の指揮下に入り、開封から杭州方面へ移動し、「諸曁(ショキ)」を拠点にして、主に道路の応急補修や架橋を主な任務とした。しかし当初は豪雨に見舞われ、堤防決壊や道路寸断が多く、橋は何度架けても流されるという状況であった。作戦後半は、各中隊ともに兵站戦確保と維持のため、諸曁と義烏の間の道路整備を続け、作戦自体は9月末に終了した。
1942(昭和17)年12月、大隊の隊員の多くは関東軍を離れ、新設された陸軍「船舶工兵第10連隊」要員となって、すぐさま「上海」に移駐することになった。