見習士官の土下座
6月10日夜に呉淞に着いた摩耶山丸は、父の所属する「船舶工兵第10連隊」をはじめとする多くの要員、資機材などを積み込み、その日の内に僚船とともに出港することになった(摩耶山丸は小さな船団を組んでいたようであるが、その詳細は後日)。
呉淞での慌ただしい作業が終わったときの、ある出来事を父は回想している。
≪連隊要員も乗船しつつあったころ、摩耶山丸の甲板で私が作業を見守っていると、突然5人の見習士官がゆっくり近づいてきたのである。
すると5人は横に並んで突然私の足下に跪き、涙ながらに「よろしく、これからはよろしくお願いします」と何度も伍長の私に頭を下げたのである。あまりに急なことで、私はただ呆気にとられて彼らを見つめるだけであった。たぶん上官に促されて私の所へ挨拶に行ってこいと言われたのであろうが、その哀願するような態度と涙顔には正直驚いたのである。
多分内地で教育を終え、5人はいずれどこかに配属される予定なのであろうが、顔見知りのいない部隊、これからの航海や見知らぬ戦地への不安がそうした異様な行動をとらせたのかも知れない。だがいくらなんでも、土下座して涙まで流すとは・・・。今でも彼らの怯えたような表情が目に焼き付いている。≫
彼ら五人の見習士官について、その後父は何も書いていない。ただある箇所で、とりわけ戦争末期に父の部隊に配属された将校たちのなかには、古参の下士官たちと若干そぐわない者もいた、と他人事のように簡潔に記していた。
さて、行き先不明のまま、摩耶山丸は南へ針路をとったのである。