Ⅳ 船舶工兵

2017年2月 4日 (土)

見習士官の土下座

6月10日夜に呉淞に着いた摩耶山丸は、父の所属する「船舶工兵第10連隊」をはじめとする多くの要員、資機材などを積み込み、その日の内に僚船とともに出港することになった(摩耶山丸は小さな船団を組んでいたようであるが、その詳細は後日)。

呉淞での慌ただしい作業が終わったときの、ある出来事を父は回想している。

連隊要員も乗船しつつあったころ、摩耶山丸の甲板で私が作業を見守っていると、突然5人の見習士官がゆっくり近づいてきたのである。
すると5人は横に並んで突然私の足下に跪き、涙ながらに「よろしく、これからはよろしくお願いします」と何度も伍長の私に頭を下げたのである。あまりに急なことで、私はただ呆気にとられて彼らを見つめるだけであった。たぶん上官に促されて私の所へ挨拶に行ってこいと言われたのであろうが、その哀願するような態度と涙顔には正直驚いたのである。
多分内地で教育を終え、5人はいずれどこかに配属される予定なのであろうが、顔見知りのいない部隊、これからの航海や見知らぬ戦地への不安がそうした異様な行動をとらせたのかも知れない。だがいくらなんでも、土下座して涙まで流すとは・・・。今でも彼らの怯えたような表情が目に焼き付いている。

彼ら五人の見習士官について、その後父は何も書いていない。ただある箇所で、とりわけ戦争末期に父の部隊に配属された将校たちのなかには、古参の下士官たちと若干そぐわない者もいた、と他人事のように簡潔に記していた。

さて、行き先不明のまま、摩耶山丸は南へ針路をとったのである。

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2017年2月 3日 (金)

陸軍特殊船「摩耶山丸」

岐阜から宇品に戻って訓練を続けていた父に、突然原隊復帰の命令が下った。

突然のことであり、我々は驚く間もなく帰り支度を急いだ。往路は鉄道だったが、帰りは大きな船に乗ることになった。
その船とは、特殊船「摩耶山丸」約1万㌧である。今思い出しても、とにかく大きくて新しい船だという印象しかないのである。宇品出港は6月9日であった
翌10日には呉淞に着いた。下船できるだろうと期待していたが、なぜか私は内地へ行った下士官のなかで一人だけ船に残され、上陸用舟艇などの機材を積み込む係を任されたのである。しかも我が連隊要員の乗船についても指示せねばならず、呉淞に置いたままだった私物なども同僚に運んでもらうことになった。今思うと、出港をよほど急いでいたか、あるいは係の将校が着任していなかったのかもしれない。とにかく地獄のような忙しい作業だった。

陸軍特殊船「摩耶山丸」、その船は私にとって最も印象に残る船名であった。
小学生の頃、父の話してくれた軍艦は、駆逐艦「吹雪」、戦艦「霧島」、そして巡洋艦「足柄」の3隻だった。これらの軍艦は小学生当時も写真や絵で見ることはできたが、しかし父の乗った特殊船「摩耶山丸」については、どんな形をした船なのか全く見当もつかない謎の船であった。私が摩耶山丸について調べ始めたのは、つい5年ほど前であり、上田毅八郎氏の船舶画として見ることはできても、いまだに写真は見つかっていないとのことである。ただ、その設計図は「アジ歴」で確認できるし、幾つかの書籍にも掲載されている。
私が今関心をもっているのは、摩耶山丸が宇品を1943(昭和18)年6月9日に出港しているという記述である。おそらく戦友会誌などで確認した日付であろうと思われるが、私があらためて調べ直してみると、呉淞着は6月10日だが、宇品出港は9日ではなく、5月であったらしいのである。このことについては、まだ調査は続けているので、あらためて触れてみたいと思う。
*摩耶山丸については、次の二つの記事参照
 「摩耶山丸のこと」→1→2
 

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2017年2月 2日 (木)

駆逐艦「吹雪」のK君

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*以下の記述は★→「パレンバンの掃海業務も参照してください。

訓練は2か月の予定であった。内地の土を踏めることは、突然ではあったが嬉しいことであった。往路は鉄道を使った。上海から朝鮮半島を経ての長旅である。
京城郊外を列車が走っていたとき、車窓からは美しい桜の花が見えたことを思い出す。もうすぐ内地に着くのだと思うと胸が高まるのを抑えられなかった。
広島へ来るのは初めてである。日清戦争以来の軍都であり、我々船舶工兵を統括する司令部もある。我々が利用した宇品の船舶練習部の兵舎は、実は復員時にも全く同じ部屋を使ったのであるが、不思議なことであった。
訓練に先立ち特別休暇が数日与えられた。懐かしい岐阜の実家に帰ると、家族の皆は突然のことで随分驚きつつも大いに喜んでくれた。実に2年半ぶりの再会だった。しかし母はすでに旅立ち、あらためて墓前で自分の不孝を悔やみ、そして父や家族に迷惑をかけたことを詫びたのである。
このとき悲しい報告もあった。隣家のK君が南方ソロモン海で去年戦死したとのことである。彼は幼い頃から兄弟同様の友人であり、同学年でもあったから大きな衝撃であった。
彼は駆逐艦「吹雪」の乗組員であり、1942(昭和17)年10月のソロモン諸島における海戦(サボ島沖の夜戦)で「吹雪」は沈没し、戦後調べたところ、乗組員はほぼ全員に近い戦死であったという。そして不思議なことに、「吹雪」の最期については、私が南方に行ってからもある水兵から再び詳しく聞くことになるのである。
さて、休暇も終わって宇品へ戻るとき、「訓練は2か月だから、終わる頃にはもう一度休暇で帰ってくる」と父に告げたのであるが、残念なことにその予定は実現できなかった。

戦死した駆逐艦「吹雪」の乗組員K君のことは、父が度々話してくれたので記憶に残っている。後に記すが、南方へ行ってからも、父は吹雪沈没の話を、沈没した戦艦「霧島」の助かった水兵から聞くことになる。竹馬の友の死は悔しく悲しい出来事であり、生涯忘れることはなかったのである。
以前私が呉の長迫公園(旧海軍墓地)を訪れたとき、「第十一駆逐隊慰霊碑」横の戦没者名簿の「吹雪」には、たしかに「K君」の名も刻まれており、なぜか家族の名を見つけたような気がして、思わず手を合わせたことがあった。

2か月の予定で宇品に派遣された父は、わずか数週間で突然原隊復帰の命令を受けることになる。そのため2度目の帰郷は叶えられなかった。

*駆逐艦「吹雪」の最期については後日また記してみたい。なお上の写真は、小学生以来こうしたものを作っていないが、昨年ある店でたまたま目にし、つい買ってしまったプラモ。ところが、中にある解説書の最後には、「1942年10月12日にサギ島沖夜戦で・・・敵艦の電探射撃により沈没した。」とあった。「サギ島」は誤植であろう。ちなみに英文のほうは正しく the Battle of Cape Esperance とあった。

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2017年1月31日 (火)

宇品の船舶練習部-その2-

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                        2015年1月13日撮影(下4枚も)
父にとって広島・宇品は特別の場所であったようだ。大陸や南方の戦地よりも僅かな期間であったにも拘わらず、戦時中と復員時に訪れた広島のことは強く記憶に残っていたらしい。だが、復員時に見た広島市街の様子についてだけは、それを語る言葉がどうしても見つからなかったのか、多くを話すことはなかった。
父の遺稿を整理し始めたころから、数度広島を訪れ、宇品地区にも2度立ち寄った。当時の面影はほとんど無くなっているが、六管桟橋(軍用桟橋)は護岸となり、東側は「宇品波止場公園」になっている。船舶司令部のあった旧凱旋館の場所の一部は、今は「宇品中央公園」であり、幾つかの碑が建てられている。「宇品凱旋館建設記念碑」「旧蹟 陸軍運輸部 船舶司令部」の碑とともに、「港」の歌の歌碑もある。
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中央公園の北側道路には、「被爆建物」の「広島陸軍糧秣支廠倉庫」がある。宇品線の宇品駅プラットホームに沿って1910年に軍用物資保管のためにレンガで造られたものである。その壁とプラットホームの一部分だけが遺されていた。
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宇品については、復員時の様子を記すときに再び触れることにし、次回は、宇品から岐阜に休暇で一時帰郷したときの遺稿を見ることにしたい。

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2017年1月30日 (月)

宇品の船舶練習部-その1-

Usa5m2239273_19450811_kaikai_2 クリックして拡大してください

1943(昭和18)年4月末に父は呉淞から「陸軍船舶練習部」に派遣された。その詳細を父はほとんど書き遺していない。ひとまず具体的にどのような所だったのか、実際に広島の宇品に足を運んだり、史料を集めて調べてみた。練習部の配置図は、『広島原爆戦災誌 第1巻』所収の「広島陸軍船舶練習部(旧大和紡績工場)被爆者収容要図 調整 野村 清」を参考にしたが、昭和20年当時の資料であり、父が滞在した昭和18年とは異なる点もあると思う。

練習部のあった場所は、もともと紡績工場であり、昭和9年錦華人絹(のち錦華紡績)、昭和16年には大和紡績となって、昭和18年2月になり、陸軍が借上げて陸軍船舶練習部などの船舶司令部関連施設となった。その位置や宇品地区の様子は上掲の米軍写真で確認できる。練習部に派遣されたことについて、父は「舟艇などの特別演習」のためだと書いているだけで、具体的には全く分からない。あたらしく実用化された舟艇の運用技術講習だったのか、南方戦線を想定した舟艇運用技術の習得だったのか、あれこれ想像するしかない。派遣されたのは、船舶工兵第10連隊から、士官2名、下士官6名だったと記されていた。いずれにせよ、練習部開設直後に派遣されたのである。
軍用桟橋近くには、旧凱旋館に入った「船舶司令部」や宇品駅が確認できる。なお、現マツダの工場敷地内には、「講堂」が今も「被爆建物」として現存している。この施設を見るためだけに会社敷地には入れないが、旧宇品線のあった東側から写真を撮ってみた。
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黒い建造物が旧学生講堂である。屋上には草が生え、年月の経過も感じる。対空監視哨があったというが、右側へ突き出た部分がそれにあたると思われる。当時、父もこの施設を利用したり見たかもしれないと思うと感慨深い。
練習部施設は、被爆直後に宇品へ逃れたり、運ばれてきた被爆者を収容しており、施設内の各所では荼毘に付された被爆者も多い。さらに練習部に臨時に開設された野戦病院や「廣島陸軍第一病院宇品分院」が被爆者の治療にあたり、降伏後に被爆者の疫学調査が日米合同で行われてもいる。また、原爆被害の少なかった宇品の船舶兵たちは、二次被爆をしながらも、市内の被爆者救護やライフラインの復旧にあたったことも忘れてはならない。

父にとってこの宇品は特別なところであった。実は復員したのが宇品引揚援護局であった。援護局は練習部の施設を利用しており、昭和18年に滞在した宿舎の全く同じ部屋を昭和22年に再び利用することになるが、それはまだ先のことである。

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2017年1月24日 (火)

「呉淞」の砲台

   Photo                      絵葉書:呉淞砲台跡

初年兵教育が終わった1943(昭和18)年2月、父は再び上海の黄浦江などで舟艇訓練などの通常業務に戻った。このころから大発・小発などの上陸用舟艇や新しい無線機器が配備され、その使用訓練と整備などが昼夜無く続いたという。そして3月になると、連隊は本格的な舟艇運用のために上海北部の「呉淞」地区へと移駐した。

呉淞地区は第二次上海事変で多くの犠牲者を出した敵前上陸の激戦地である。岐阜や名古屋の部隊にも多くの戦死者がいる。
ある日、戦友と呉淞砲台に行ったことがあった。すでに第一次上海事変後に砲台は破壊されていたらしいが、覗いた砲身の中に砲弾が止まったままになっているように見えた。そのとき小さい頃に父から聞いた話を思い出したのである。かつて蔣介石が日本から砲弾を買ったことがあったが、その中には不良品が混じっていたらしいとのことである。話の真偽はともかく、あの大きな砲身は冷たく不気味な肌触りであった。
 私は「野戦工兵」から「渡河工兵」となり、こんどは「船舶工兵」となった。上海や呉淞では海上訓練も加わり、陸軍なのに海で活動することが本務となってしまった。意外なことであった。手旗信号は水兵だけのものと思っていたので、最初は戸惑ったものである。いや、それよりも私は金槌だったのである。乗船中はカポックを着用しているとはいえ、そんな私が「ヨーソロー」などと指示する大発の艇長だったとは、今でこそ言える笑い話である。

1943(昭和18)年初頭、すでに志願から2年の月日が経ち、「船舶工兵」下士官としての任務にも慣れてきたころである。予想に反し、陸の工兵から「海の工兵」となった父は、やがて大陸を離れ、南方戦線へ向かうことになる。
この頃の戦況は曲がり角に来ていた。昨年夏、ミッドウェー島攻略を試みたが海戦で打撃を受け、太平洋戦線は次第に守勢にまわり、2月には「ガダルカナル島」から撤退した。4月には山本五十六が米軍機の待ち伏せ攻撃を受け戦死している。

4月、呉淞にいた父に突然広島・宇品への派遣の命令が下った。

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2017年1月23日 (月)

四馬路と先輩下士官

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               絵葉書:ガーデンブリッジ
                 四馬路などの繁華街は画面右奥
        
「上海帰りのリル」という歌が戦後間もない昭和26年頃流行していたという。のちにテレビでこの曲が懐メロとして流れると、父は懐かしそうに口ずさんでいたことを思い出す。「・・・夢の四馬路の霧降る中で・・・」という歌詞がある。その「四馬路」のことを、父は幼い頃から私によく話してくれた。
すでに戦前の歌に「上海リル」があり、さらに「上海帰りのリル」のアンサーソングのようなものが何曲かつくられていたらしい。謎の「リル」のことを含めその歌謡史は興味を誘うが、本題は歌ではなく、「四馬路」のことである。

ある日、同郷の先輩下士官に誘われ、二人で上海市内に外出したことがあった。「四馬路」街にあるフランス料理店で、昼食のフルコースを生まれてはじめて注文した。戦時下のほんの一時の贅沢だった。彼は高潔でありながら人情味溢れ、互いに本音で話し合える数少ない先輩・戦友のひとりだった。その後、彼とは部隊が分かれ、消息がわからなかったのであるが、戦後戦友会で聞いたところによると、ビルマのラングーン沖で彼の乗る輸送船が空襲で撃沈され、戦死したとのことである。四馬路を冗談を言い合いながら歩いた思い出は忘れ難く、戦後再会できなかったことは残念なことであった。

先輩下士官や上海での休暇の日の食事がよほど印象に残っていたのだろう。父の実直な性格のせいか、遺稿にはあまりこうした体験や人間関係のことは書かれていないことを思うと、珍しい箇所である。そして、初めて「戦死者」のことを書いている。
彼のことは戦友会誌を見ても誰かは分からない。ただ、ラングーン沖で沈没した輸送船について調べてみたところ、可能性のある船が見つかった。ラングーン沖海域で空襲や触雷によって沈没した船は13隻あり、沈没時期と乗組員に船舶兵が乗っていた可能性のある船などを特定すると、以下の3隻の可能性が強い。いずれも沈没時期は、1943(昭和18)年8月~12月である。「第5高島丸」 「どうばあ丸」 「みらん丸」(なお資料は「沈没した船と海員の資料館」のサイト等を用いた。)

とくに南方で戦った陸軍兵士の方の手記や談話には、数多くの船の名前が出てくる。「船舶戦争」ともいわれるあの戦争を考えるとき、私は軍艦だけでなく戦争に駆り出された民間輸送船と船員の悲劇を決して忘れてはならないと思う。

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2017年1月22日 (日)

陸軍船舶工兵第10連隊

      Photo
                                 絵葉書:上海バンド(黄浦灘)
                  現在も多くの建物が残っている

陸軍「船舶工兵第10連隊」に転じた父は、以後降伏時までこの連隊の下士官として勤務することになった(いわゆる「船舶工兵」の概要はいずれまた)。

12月から上海で活動することになった連隊は、現役兵に加え、内地からやってきた補充兵や召集兵など、総員千名ほどに膨れあがった。その兵舎は、「上海ココー(滬江)大学」の建物を使うことになったが、東側にはクリークが接していたように思う。上海は今まで見たこともない大都市であり、活気に満ちた国際都市であった。
相変わらず資材や陸上運搬手段が欠乏している状況でも、「船舶工兵」としての訓練や演習だけは厳しいものであった。私は初年兵教育の「助教」を初めて務めることになった。兵は30歳くらいまでの者で、なかには妻子ある者が多くいた。関西の都市部出身の補充兵の割合が高かったので、農村出身者と比べると体力や気力はやや劣る者が多く、そのため助手も私も初めは何かと苦労や悩みが絶えず、必要な技能や習慣を身につけさせることに時間と手間がかかったのである。

「滬江大学」は1906年に米国のバプテスト教会系の人たちによって創られた大学である。現在は「上海理工大学」になっており、当時の美しい校舎などをネットでも見ることができる。場所は、黄浦江がバンドから東へ流れ、北へ蛇行し始めるあたりにある。東側には父の記しているように確かにクリークが南北に走っている。
連隊が黄浦江などを拠点にして大発や小型舟艇などの操舵訓練を行っていたとき、父は初めて初年兵教育を担当することになった。

1943(昭和18)年正月、上海バンドの対岸で舟艇訓練をしていたとき、突然の部隊長命令で上海神社までの駆け足訓練が実施された。助教であった私は、もともと足腰の弱い自分がはたしてそこまで辿り着けるか不安だった。ガーデンブリッジに差しかかり、ブロードウェイマンションを見ながら橋を渡ったころからすでに息が苦しくなっていたが、立場上気が張っていたのかなんとか神社に辿り着くことができた。

実直だったせいか、父の遺稿にはほとんど軍務以外のことは書かれていない。けれどもある休暇の日のことを珍しく回顧していた。次回は「四馬路」と先輩下士官のことを記す。

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