Ⅴ シンガポール・ベラワン

2017年2月12日 (日)

パレンバンの掃海業務

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   絵葉書:すみれ丸(初代)

パレンバンへの移動中、シンガポールからバンカ島までは、有名な客船に乗った。もと別府航路で活躍していた「すみれ丸」である。いまでもその美しい船影を忘れることができない。思えば少し贅沢な航海でもあったかもしれない。戦後は賠償船としてオランダに渡されたという話を聞いたことがある。
パレンバン(ムシ河)の掃海業務は海軍と共同して行われた。海軍の掃海艇や大発などを使って機雷を発見し除去するのだが、2か月で数個の機雷を処理することができた。
宿舎の近くには、「捕虜収容所」があり、広場には赤く日焼けした白人の大男たちが毎日集団訓練を繰り返していた。掃海艇にはオランダ兵捕虜も同乗していたので、きっと機雷の場所を案内させていたのだろうと思う。

掃海艇の水兵たちとも親しくなったころ、その一人から思いもよらない話を聞いたのである。彼は戦艦「霧島」の信号兵だったということだが、実は駆逐艦「吹雪」の最期のことを話してくれたのである。「吹雪」といえば、私の友人K君が戦死した艦である。半年前に帰郷した折、彼の戦死を知らされていたが、まさか再び「吹雪」の話を聞くとは驚きであった。
その水兵によれば、サボ島沖夜戦でj乗っていた巡洋艦(大破した「青葉」?)のすぐ近くで「吹雪」が沈没したとのことであった。あっという間の出来事だったそうだ。その水兵はそのあと戦艦「霧島」に乗ることになったが、「霧島」もその後沈没(1942年11月)し、今は掃海業務に就いているとのことであった。
陸軍にいながら、海や港で活動することになった私にとって、この海がひょっとしたら自分の墓場になるかも知れない、当時そんな不安を持ち始めたのは、水兵たちから聞く沈没した艦船のことやK君の戦死があったからかもしれない。
ベラワンに帰ったのは、1943(昭和18)年11月。すでに戦況の悪化は誰の目にも明らかだった。連日の空襲や、マラッカ海峡における敵潜の攻撃は、その頻度を増しつつあった。

すみれ丸:船歴等は省く。父は賠償船としてオランダに渡されたと書いているが、少し調べると、その後の消息は不明だとのことである。ところが、1952年にはインドネシア政府に譲渡され、1954年に「ブングル」(百日紅)と名を変え、1956年10月に香港からジャカルタへ曳航中に香港沖で悪天候により沈没したといわれる(The Ships List のサイトによる)。
捕虜収容所:この捕虜収容所は、マレー捕虜収容所(本所シンガポール)の「第2分所」であり、主にオランダ兵捕虜を収容していた(POW研究会のサイトによる)。

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2017年2月11日 (土)

ベラワンとパレンバン

Photo_3  マレー、スマトラ要図(Google地図をもとに作成 拡大可)

シンガポールで一時的な滞在の後、連隊主力はスマトラ島ベラワンに向かう。

8月中旬になり、ようやく連隊の駐留地が決まった。スマトラ島北部の第1の要衝「メダン」のベラワン港である。輸送船「八雲丸」などでマラッカ海峡を北上した。
ベラワンは、ここからさらに北方に向かうとアンダマン海やインド洋に通じる重要拠点であり、沖合には英連邦軍の潜水艦が頻繁に出没する敵味方の最前線でもあった。我々は主に沿岸警備、海上輸送などを任務としたが、ふだんは舟艇訓練や通信訓練を間断なく続けることになった。しかし敵爆撃機の空襲が徐々に激しくなり、決して安全なところではなかった。
船舶工兵第10連隊は、この地域で唯一の船舶工兵部隊であった。そのため活動範囲は極めて広範囲に及び、アンダマン諸島、スマトラ島、マレー半島、さらにはジャワ島、ボルネオ方面にまで連隊要員が出向いていたのである。おまけに海軍とも連携する機会が多く、機雷掃海などの補助的任務を任されることもあった。
1943(昭和18)年10月、私は連隊の中隊の38名とともに、スマトラ島南部の「パレンバン」へ出張を命じられた。任務は「ムシ河」の機雷掃海である。
パレンバンは、米英との開戦時の蘭印作戦で、重要な石油資源確保のため落下傘部隊の奇襲が行われたところである。私が行った頃はすでに大型機雷は大部分除去されていたようだが、まだ多くの機雷が残っており、船舶航行に支障があったためである。

戦友会誌の記述によると、1943(昭和18)年10月8日にベラワンを発ち、ペナンまで船で行き、そこから列車でシンガポールへ。バンカ島ムントクまで客船に乗り、さらにパレンバンへ。その業務を終えて復帰したのは11月末であったという。

八雲丸:大阪商船所属。1944(昭和19)年3月19日、ニューギニア・ウエワク北方で空爆のため沈没。船員・便乗者62名、船砲隊48名戦死。(戦没した船と海員の資料館より)

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2017年2月10日 (金)

摩耶山丸のこと-その2-

摩耶山丸についてもう少し記しておきたい。ただし、摩耶山丸の船歴や構造の詳細についてはここでは省略する。
もともと摩耶山丸は特殊船と呼ばれた「舟艇母船」であり、上陸作戦時において大発などの各種舟艇を効率的に輸送・運用するための揚陸母船として造られている。他に神州丸、あきつ丸、吉備津丸などがある。しかし一部を除き上陸作戦で用いられることはなく、単なる輸送船としての役割に終始した。父が乗ったときも、船内、船上に多くの舟艇を積んでいたようだが、実戦運用ではなく単なる舟艇・兵員輸送のためにシンガポールに向かったのである。

摩耶山丸は、1944(昭和19)年11月17日、伊万里からマニラに向け航行中、済州島西方120㎞、米潜水艦の雷撃により沈没した。死者数:第23師団 4,387名中 3,187名、船砲隊 194名、船員 56名、計 3,437名 (戦没した船と海員の資料館のウエブサイト資料)

調べてみると、その犠牲者数は戦時中の戦没船舶のなかでも極めて多いものであった。幾つかの書籍には、戦没船員の氏名、その年齢層などを見ることができる。『商船三井船隊史1884-2009』によれば、55名の船員の年齢層は14~46歳。そのうち10代は34名にのぼる。また、最近(2013年)になって、上記船員の他に数十人の死者があらたに判明し、その多くは調理員であったという(戦没した船と海員の資料館の調査)。
おそらく父が乗船したときに船員であった方々、なおかつ10代の若者も多く亡くなられたのであろうと思うと胸が痛くなる。

さて次回は南方最初の駐留地であるスマトラのベラワン、そしてパレンバンでの機雷掃海について記す。

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2017年2月 9日 (木)

摩耶山丸のこと-その1-

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摩耶山丸 一般配置図
(アジ歴より:詳細は末尾記載)

ここであらためて、父たちを乗せた「摩耶山丸」が、どのような航路で「シンガポール」に安着できたのか辿ってみたい。まだ一次資料が確認できないので、すべて書籍等の二次資料から推測する。
まず駒宮氏の書籍にはこうある。

  昭和18年6月7日「宇品」―同年6月20日「昭南」安着
  船団:吉林丸、摩耶山丸、関西丸の3隻 護衛艦艇名:不詳
  『戦時輸送船団史』(駒宮真七郎 昭和62年 出版協同社)62頁

すでに紹介した父の記述も宇品出港は6月7日である。しかし戦友会誌には、宇品出港ではなく、連隊が乗船した呉淞の出港日(これも複数の異なる日付)の記述があるのみである。ただ、呉淞から駆逐艦1隻の護衛が途中まであったこと、台湾馬公に寄港し「関西丸」(第15師団乗船)と船団を組んだこと(サイゴン沖で分かれた)、サイゴン沖で海軍機1機が一時護衛したことなどの記述が見られた。そしてシンガポールに着いた6月20日の日付は、複数の資料とも同じであった。

次にウエブサイトで確認できる資料については以下のとおりであった。
「Imperial Japanese Navy Page 」(http://www.combinedfleet.com/Mayasan_t.htm
 これによると、摩耶山丸は5月18日には宇品を出て、6月9日の午後3時になって「吉林丸」とともに伊万里湾を出港し、船団名は「シ-902」であった。さらにその際、PB-38(哨戒艇)が護衛し、15ノットで移動しているとされている。
6月10日の午後7時には台湾沖で哨戒艇の護衛はなくなり、その夜に呉淞に到着する。そしてその日の内には船団に「関西丸」を加えて未確認の護衛艦とともに呉淞を出港し、6月20日にシンガポールに到着した。

この海外資料は日本の記録をもとにしていると思われるが、一次資料が何なのかは不明である。以上の諸資料をまとめると、次のようなことが推測できる。

5月18日宇品発―(いったん宇品に戻り)―6月7日宇品発―6月9日伊万里湾発(吉林丸及び護衛艦として第38号哨戒艇同行)―6月10日呉淞着―同日呉淞発―(途中台湾澎湖島馬公寄港:関西丸同行は呉淞からの可能性あり)―6月20日シンガポール安着。
なお複数の資料とも、関西丸は6月20日にシンガポールに着いており、一時途中から航路を別にしたかもしれないが、目的地は同じであったことになる。

関西丸、吉林丸などの資料も詳しく調べるべきだが、それは後日にし、次回は、摩耶山丸の最期について記す。

*上掲の摩耶山丸一般配置図:アジ歴の資料 C14020235500「特殊船摩耶山丸一般配置図其の1」のうち1-3の3枚を筆者が結合・編集したもの。なお「揚陸艦艇入門」(大内健二 NF文庫 2013年)にも摩耶山丸の一般配置図の詳細がある。
*PB-38:もと駆逐艦「蓬」
*戦友会の会誌:「船舶工兵第十聯隊200人の實證(全8巻)」

 

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2017年2月 6日 (月)

出会い

1943(昭和18)年6月20日、摩耶山丸はシンガポール(昭南島)に着いた。
父たちには行き先を知らされないまま、呉淞から約2週間の船旅であった。やがてチャンギー地区に上陸した父は、突然そこで親族と面会することになった。

この人は父親の妹婿の栗本という名古屋に住む35歳の補充兵であった。ある日突然、私を名指しで面会に訪れたので驚いたのである。もちろん初対面である。
南方にしては太陽が雲に隠れた肌寒い日だったと記憶している。それでも私はサイダーを出し、1時間ばかり談笑した。聞くところによれば、彼は私と同じ豊橋の工兵連隊に召集され、これからシンガポール経由でビルマ方面に向かうとのことであった。
「親にも行き先を知らせていないのに、なぜ私がここにいることがわかったのですか」と問うと、「たまたま港にいる部隊の人と雑談をしていたら、あなたのことを知っていると言われた」とのことである。外地で親族と初対面とは「奇跡ですね」と互いに驚き喜んだのであった。
ところが「会うは別れのはじめ」というが、戦後実家に復員した私は、彼が派遣されたビルマで戦死したことを知ったのである。しかもそのとき、母方の親族のひとりもレイテ島で戦死していたこともわかったのである。
シンガポール滞在は2か月ほどであったが、連日彼のような兵士たちがここに立ち寄り、少しの休息を得たあと、あたかも風のように激戦地に去って行き二度と故郷には帰らなかった。すでに戦後半世紀を経た今でも、自分がこうして生きていることが、ときどき不思議なことに思えてくるのである。

親族の戦死は、父にとって辛いことであった。戦死者のいなかった父の家族は幸せであったが、戦死者をもつ親族の前では(もちろん隣近所でも)、戦後その喜びを語ることなどできなかった。
Syounantou_4                     絵葉書:昭南島

やがて8月中旬、父の部隊はスマトラ島へ向かうことになった。

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