Ⅵ マラッカ海峡

2017年3月18日 (土)

連絡艇について

【2020年2月一部分加筆】
前回までの記事では、マレー半島で編成された陸海軍共同の部隊「連絡艇隊”櫻隊”」の概要を記した。
ところで、戦友会誌には、連絡艇の諸元と図が記されている。下記の図は私なりに描き直したものである。

全長 6m 全幅 1m50㎝ 全高 1m 吃水 30㎝ 速力 24節 自重 1000㎏
爆雷 100㎏×2  担ぎ上げる場合18名を要する 凌波性良し
先端の衝突棒が当たると爆雷が落下する
船体はチークべニヤ板の三枚張り
エンジンはトラックエンジン:シボレー フォード ビック クライスラー等
スクリューは真鍮製3枚羽根

 

Photo_4

戦時中、陸海軍それぞれが特攻艇をつくっている。海軍は「震洋」、陸軍は「四式肉薄攻撃艇連絡艇、㋹(マルレ)」、父の戦友会誌では㋩(マルハチorマルハ)といわれた(戦史叢書等では「ハ」は漢数字の「八」とあり、陸海軍共同の部隊の場合の呼称と思われる)。
個別部隊の記録以外に、その全体を扱った公刊書籍は幾つかある。
『日本特攻艇戦史』 木俣滋郎 1998年 潮書房光人社(NF文庫もあり)
『陸軍水上特攻部隊全史』 奥本剛 2013年 潮書房光人社
『還らざる特攻艇』 益田善雄 霞出版社 
           昭和31年初版 昭和63年と平成17年に改訂版
陸軍に限れば、陸軍船舶特別幹部候補生(船舶特幹)と海上挺進隊関係者によってまとめられたものに、以下のものもある。
『㋹の戦史』陸軍水上特攻の記録 昭和47年 増補・改訂版 平成17年

前回触れた『還らざる特攻艇』以外には、マレー半島で編成された連絡艇隊についての記述はこれらの書籍にはない。

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2017年3月16日 (木)

水上特攻部隊の編成➂

連絡艇隊の存在を公的記録として確認できるのは、以下の命令文である。

○「アジ歴」 C14110715600 の中の「岡方作命甲第127號・第128號」

なお、『戦史叢書』(南西方面陸軍作戦マレー・蘭印の防衛)の345-346頁には、「連絡艇の整備、運用」という一節に、連絡艇配備に関する上記命令文の一部が掲載されている。

◎軍事機密 岡方作命甲第百二十六號 第七方面軍命令 三月七日昭南

一、第二十五軍司令官ハ連絡艇第二中隊ヲ其ノ編成完結後速カニ
   「アルア」諸島方面ニ派遣シ第二十九軍司令官ノ指揮下ニ入ラシ
     ムベシ(中略)
二、第二十九軍司令官ハ連絡艇第一、第三中隊及前項部隊ヲ併セ
      指揮シ中部馬来半島西岸及南部「マラッカ」海峡ニ於ケル海上
      防衛ヲ強化スベシ
三、第二十五軍司令官及第三船舶輸送隊長ハ前項ノ作戦準備ニ密
   ニ協力スベシ(以下略)

◎岡方作命甲第百二十六號ニ基ク参謀長指示 三月七日昭南

一、第二十九軍司令官ハ連絡艇隊ヲ左ニ準據シテ運用スルモノトス
   1、運用ノ大綱
     主トシテ敵輸送船團ヲ奇襲爆碎シテ敵ノ中部馬来半島西岸
     ニ對スル上陸企圖及「マラッカ」海峡ヲ昭南方面ニ向フ侵攻
     企圖ヲ撃碎ス
   2、基本配置
      連絡艇第一中隊「アロルスター」附近沿岸要地
       連絡艇第二中隊「ポートセッテンハム」及「アルア」諸島
                 附近ヲ含ム要地
      連絡艇第三中隊「ポートディクソン」附近沿岸要地
   3、機動準備
     前項ノ配置ヲ根據地とし槪ネ二夜機動ヲ標準トシテ夜間機動
     ヲ實施シ得ル如ク準備ス(中略)
   4、戦闘要領
     イ、攻撃目標ハ主トシテ停止セル輸送船トシ「マラッカ」海峡
       封鎖ノ為ニハ航行スル各種艦船ヲモ選定スルコトアリ
     ロ、攻撃ノ時機ハ夜間トシ上陸ヲ企圖スル敵ニ對シテハ勉メ
       テ其ノ上陸開始前ニ選定ス
     ハ、攻撃ニ方リテハ奇襲ニ徹底シ勉メテ少數逐次ノ戦闘ヲ避
       ケ少クモ中隊主力ヲ集結使用シテ敵主力船團ヲ攻撃シ
       一擧ニ潰滅的打撃ヲ與フル如ク勉ム
        但シ「マラッカ」海峡ニ於テハ一部ヲ以テ長期ニ亙り遊撃
       的戰闘ヲ續行シ得ル如ク準備ス
     ニ、攻撃終レルモノハ勉メテ収容シ再度ノ戦闘ヲ準備セシム
    (以下略)

この文書では、連絡艇関係の作戦を秘匿名称「櫻作戦」と名付けている。
また、部隊の存在、基地設営や教育も極秘のうちに行うこととしている。教育関連の実施要項や配備の日程等の詳細もこの文書で見ることができるが、すべて省略する。

    
      
    

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2017年3月12日 (日)

水上特攻部隊の編成②

「連絡艇隊」(水上特攻隊)について、父の遺した戦友会誌等の記述は概略次のようなものであった。
・部隊は第1~第4の4ケ中隊で編成されていた。
・第4中隊だけは海軍が編成していた。
・船舶工兵第10連隊から選抜された隊員は、第3中隊に配属された。
・第3中隊の秘匿基地はポートディクソン北のタナメラに設営された。

第3中隊について、その編成過程を年表にすると―

1945(昭和20)年
3月20日 
船舶工兵第10連隊から、70名が選抜され舟艇特攻隊要員となる。
3月23日
基幹要員7名が、シンガポールの東にある「ベンゲラン」へ派遣される。
4月 1日
水上特攻部隊4ケ中隊は「タイピン」の第29軍司令部営庭で石黒貞蔵
中将の訓示を受け、全員ペナン島へ移動。夜間視力増進と船暈防止
の訓練を受ける。
以後、訓練は約2か月続いた。
6月?日
4ケ中隊はそれぞれの秘匿基地に移動。のち、ベンゲランで訓練を受
けていた基幹要員も各部隊に合流し、秘匿地で設営・訓練が始まる。
第3中隊の秘匿地は、マレー半島中部のタナメラに設営した。
8月15日以降
降伏により、特攻艇の破却、基地撤去ののち原隊復帰。
第3中隊の大半はポートセッテンハムへ戻る。

公刊書籍では、益田善雄氏の『還らざる特攻艇』(霞出版社 昭和31年初版・昭和62年改訂版)の末尾に、手記のかたちで「シンガポール水上特攻゛初桜隊゛」という文章が第4中隊の小柳海軍少尉によって書かれている。
その他には、元塩尻市長の小野光洪氏が記した『私の半生』の「4 水上特攻の命令」のなかに、自分が第2中隊の所属であったことが述べられている。(信濃毎日新聞松本専売所WEB 私の半生 タウン誌情報掲載 第5号)

 

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*4つの部隊(中隊)の秘匿基地は、戦友会誌及び他の資料から判断して、次の4箇所と思われるが、具体的地名が不明のものもある(上掲地図参照 Google地図をもとに作成)。
第1中隊 アロースター沿岸(場所不明)
第2中隊 スマトラ島東海岸(アルア諸島付近?)
第3中隊 マレー半島西海岸ポートディクソン北のタナメラ
第4中隊 ビンタン島南西(ドンパク島

さて、次回は、この連絡艇隊(水上特攻部隊)の編成命令文書を見る。

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2017年3月 7日 (火)

水上特攻部隊の編成①

父の回顧によると、1945(昭和20)年に入ったころの記憶として次のようなことが記されている。
・軍鳩(軍用伝書鳩)の活用実験
・「大発」の航行距離計の試作
・高速艇への魚雷装備の計画
これらのうち軍鳩の活用と距離計の試作は自分が具申したと書いている。しかし適する鳩が十分見つからず挫折し、距離計は古時計を利用して試作品は完成したものの、実用化前に降伏となった。また、高速艇への魚雷装備の試作のため、父の中隊から何名かがシンガポールの海軍基地に派遣されたという記述があるが、結局間に合わなかったものとみられる。

むしろ当時のことで私が最も関心をもったのは、父の連隊から「水上特攻部隊」要員が選抜・派遣され配備されたことである。おそらく父の第2中隊には直接関わることではなかったと思うが、次のように記している。

1945(昭和20)年4月、船舶工兵第10連隊から約70名が選抜され「水上特攻部隊」に編入された。この部隊はタイピンで編成された4つの中隊から成り、ひとつは海軍部隊であったとのことである。当時の私は、この水上特攻部隊の存在をほとんど把握できていなかったが、戦後になり、戦友会などでその詳細を知ることになった。しかし、英連邦軍の大規模な反攻は当時すでに予想されており、決戦になれば誰もが体当たりしか反撃手段はないだろうと思っていたことだけは事実である。

この数行の記述以外に父は「水上特攻部隊」のことを書いていないが、戦友会誌には、連隊から派遣された特攻部隊の詳細が記されていた。その特攻部隊が編成・配備完了したころに降伏となり、実戦はなかったものの、その存在は私の大きな関心事となった。
そこで、この水上特攻部隊について詳しく調べてみようと思い立った。なぜなら、本来は輸送任務や上陸掩護が主であった船舶工兵が、やがて戦闘任務を担い、ついに特攻部隊へと変貌してゆく過程が見えてきたからである。なぜなら全軍特攻化・国民一億総特攻へと突き進んだ戦争末期の日本の姿を知るための、ひとつの手がかりとなるかも知れないからである。

次回からは、戦友会誌に記された「水上特攻部隊」について記すことにする。

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2017年3月 6日 (月)

ポートセッテンハム

さて、父たちはスマトラ島の北端には達したが、アンダマン諸島やニコバル諸島への移駐は行われなかった。最も大きな理由は、移駐先の環境が整っていなかったこと、海上輸送体制の不備などであったらしい。ただしその年(1944年)の11月には、連隊の一部の人員はアンダマン諸島などに派遣されており、降伏時まで駐留していた。

その後連隊はいったんベラワンに戻り、やがて1944(昭和19)年8月末になって、ポートセッテンハムに移駐することになった。最後の駐留地であった。
ここはマレー半島の中部の要衝であり貿易や沿岸漁業で栄えた港町である。東50㌔には「クアラルンプール」がある。
ここに連隊本部と私の所属する第2中隊(ロ隊)の大半が駐留した。他の第1中隊(イ隊)や第3中隊(ハ隊)は、マレー各地、ボルネオ、ジャワ、スマトラ、アンダマン、シンガポールなどに分散配備され、主に物資輸送や海軍に協力する任務などについていた。

ポートセッテンハム(ポートスウェッテンハム とも)は、現在「クラン」といわれている地区である。名前の由来は、19世紀末から20世紀初めに英国植民地行政官であった Frank Swettenham に由来する。なお、この地は戦争末期に英連邦軍が反撃作戦を計画したとき、上陸地のひとつに想定していたとのことである。

父は、ここで中隊本部附きの下士官として、主に兵器、給与に関わる事務処理をしていたようだ。1944(昭和19)年の11月からは、2度目の初年兵教育の助教をつとめている。このころの初年兵は、ほとんど現地徴集であり、陸海軍に徴用された船員や、何らかの理由で徴兵延期となった現地船会社・商社などに勤めている者も含まれていたそうである。

戦後(1980年ごろ)現地を訪ねた戦友によると、当時の部隊兵舎が残っており、港湾労働者の宿舎として使われていたとのことである。下はそのとき写した写真である(戦友会誌より)。

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左:第2中隊兵舎 
右:第2中隊本部(さらに左奥には連隊本部があった)

1945(昭和20)年に入ると、現地の情勢はますます混迷を見せはじめる。英連邦軍の反撃作戦への備えをしなければならないのに、補給はほとんど途絶え、武器・弾薬・食糧は不足するばかりであった。
次回はこの地においても、いよいよ「全軍総特攻」の準備に入る様子をみる。

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2017年3月 5日 (日)

艦長の回想記のこと

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*左が艦長の回想記、右は乗員の集合写真だが、おそらく父は艦砲射撃をした数名を双眼鏡で見たのではないかと思う。
  書名: "It's Not the Ships.. "  Frederick H. Sherwood with Philip Sherwood

艦長は1914年生まれで、2013年に亡くなられていた。彼の回想記が出版されていることを知ったのは、艦長の名前がわかったときであった(2015年)。回想記をまとめたのはご子息のフィリップさん(カナダ在住)であり、自伝・社史などの編集者の仕事をされているとのことであった。
本の注文の際、潜水艦に攻撃された父の回想をフィリップさんに伝えたところ、攻撃したのはこの潜水艦で間違いないとの返事があった。彼は「驚きました。ほんとうに世界は小さいですね。戦後私たちの父親が平和に余生を送ることができたのは幸せなことでした」とも述べておられた。約70年を時をへて、二人の子どもが再会できたこと、父親の記憶が互いに結びつけられたことに、今なお不思議な縁を感じている。なお、父の機帆船を攻撃したときの詳細は2頁にわたって記され、艦内の様子が手に取るようにわかり、臨場感あふれるものであった。
2020年3月追記:艦長の回想記の内容については、最近の記事参照 →★1及び→★2

潜水艦の攻撃に遭遇したことは、父にとって戦時中唯一ともいえる命の危険を感じた出来事であった。父は、この一連の潜水艦攻撃について述べた箇所の最後に次のように記した。潜水艦は味方機に撃沈されたと思っていた父は、今何を思っているだろうか。

あの魚雷がもし命中していたら、と考えると今でも冷や汗が出る。観光で船に乗ると、いつもどことなく落ち着かない気分になるのは、覗き込んだ海の中に、あの魚雷の不気味な白い航跡が幻のように見えてしまうからである。潜水艦からの攻撃は、戦時中私が最も肝を冷やした経験であり、その一部始終は今なお鮮明に記憶に残る出来事なのである。

これは悲惨な戦争の一断面にすぎないかもしれないし、戦死者も出なかった小さな戦闘でもあった。互いの攻撃が偶々「失敗」したことで両者はかろうじて生き延びることができたが、マラッカ海峡においても、現に父の連隊で潜水艦攻撃によって戦死した方があり、あるいは船員や現地の漁民の方にも犠牲者は多かったのである。それは決して忘れてはならないことである。
次回からは戦争末期の回想を扱う。


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2017年3月 4日 (土)

パトロール・レポート➂

Photo

パトロール・レポート(要約:付録図にある説明も含む)
6月30日
05:30 
潜航。ペウレウラ・ポイント方面の陸地に接近。
06:43 
船団発見。急速接近。船団掩護機は現れていない。

前日と同じ船を標的とするが、今日は船団の4隻目に位置していた。
08:35 
艦砲射撃のため浮上。船団と併走し、標的の中央部を狙う。
射程距離7000ヤード。昨日魚雷攻撃に失敗した船に2発砲撃。
着弾未確認。レーダー要員から敵機接近の連絡あり。
ブリッジからも敵機確認。
同時に船団の中の大きな船からは、機関銃などによる激しい銃撃が
あったが、艦には届かず、弾幕だけが見えた。
08:36 1/2
 
潜航。爆雷攻撃に備える。
08:38 
1分後、前方右方向のかなり近いところで爆発音1回。
コントロールルームで数個のライトが消え、少量の防水コークが剥落。
操舵不能。

08:39 
さらにもう一度遠くで爆発音あり。さらに深い場所へ退避。
本艦への攻撃は以後なし。
19:49
 
浮上。

連日執拗に父の機帆船を狙っていたことがわかる。
父にとっては危機一髪の出来事だったが、相手側の潜水艦も爆雷攻撃の危機からかろうじて逃れることができたようである。

以上、2日間にわたる潜水艦からの攻撃を見てきた。潜水艦側の記録は、やはり父の記憶と合致するものであった。パトロール・レポートは、軍事用語も多く、翻訳は謎解きのような作業であった。まだ専門用語で理解できない言葉もあるが、攻撃の概要がわかったときは、ようやく父の記憶を共に分かち合うことができたという安堵感はあった。ただ、せめて父が生きている間に・・・という残念は消えていない。

次回は、潜水艦の艦長の回想記、連絡がとれたご子息について記す。

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2017年3月 3日 (金)

パトロール・レポート②

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上の地図の地名は、1943年米陸軍作成地図(元は1935年オランダ作成)のもの。
したがって、地名に関しては、Spiteful のパトロール・レポートにある地名の綴りとは若干異なっていた。灯台船の位置もこの地図によった。

パトロールレポート(要約)
6月29日

05:24 
潜航。沖合から陸地に接近。
10:45
船団発見。7隻の小さな運搬船(coaster)、19隻の多くの種類の
小舟(launch)とモーターサンパン。
2機のKATEが付近を警戒。
11:45 1/2
魚雷3発発射。標的は船団の3隻目。失敗。深度が大きすぎた。
反撃なし。
12:17
潜望鏡を出し、Langsan湾沖を偵察。船団は浅瀬に投錨。
再攻撃は翌日にした。以下略


船団の3隻目を魚雷の標的にした理由は、付録図の説明によると、先頭の2隻があまりにも小さな船であり、比較的大きな3隻目に標的を変えたのだという。父の回想どおりであった。父は外れた魚雷のひとつが海岸に達して爆発したと書いているが、艦長はレポートにも回想記にもそのことは記していない。12:17に船団が浅瀬に投錨していると記しているところからすると、船団は魚雷攻撃を避けるため、いったん浅瀬に退避したのであろう。
そして翌日になって、父はついにその潜水艦の姿を見ることになる。

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  レポートの付録図(手書き文字を活字にして補った)

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2017年3月 1日 (水)

パトロール・レポート①

下の図は船工10の船団がベラワンを出港してからの航路と、英軍潜水艦スパイトフルの動きを示したもの(拡大可)

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uboat.net のサイトでは、パトロール・レポートの要約しか見ることができなかった。もっと詳細を知りたいと思い、原本のコピーを取り寄せることにした。
The National Archives からの郵送は若干時間を必要としたが、潜水艦側から見た攻撃の全貌を知ることができた。
なお、HMS Spiteful の艦歴等は省略し、父と関わりのある部分だけに限定して見る。

1944(昭和19)年2月29日、スコットランドのホーリー・ロッホ(Holy Loch)泊地を出発したスパイトフルは、カサブランカ~マルタ~スエズ運河を経て、4月セイロン(スリランカ)のトリンコマリー(Trincomalee)に着いた。極東へ来て1回目のパトロールは5月14日~6月5日で、6月1日にはアンダマンのポートブレア沖から島へ砲撃を行っている。

2回目のパトロールの期間は、父と関連する6月21日~7月15日である。
このパトロールの主要地域は、スマトラ島北東部のマラッカ海峡北部であった。艦長の回想記によれば、この地域は「H」といわれていた。つまり Hell(地獄)である。水深が浅く、航行が非常に難しい危険な海域だったからである。

パトロール・レポート 
6月24日~27日(要約)
サバン島北方を通り過ぎ、26日の21:30-22:30にかけて、4300K/cの日本語放送が次第に大きく聞こえてきた。翌日になると、スマトラ島に近づくにつれて数多くの漁船が視認できた。

6月28日(要約)
05:25 
潜航。アル湾哨戒。灯台船・水路標識などの位置と海図を照合。
14:00 
7隻の非常に小さな舟艇船団を確認。位置は
灯台船の南5000ヤード。
2機のKATE(97式艦攻)が随伴し、連日計画的に沖合で上空掩護。


このKATE(97式艦攻)は、父の回想では昼間30分毎に船団を哨戒していたとのことであり、発見された7隻の小さな舟艇船団は父の船団の一部であったと考えられる。
なお、哨戒機がKATE(97式艦攻)だと記しているが、調べてみたものの、いまだに航空隊名や正確な機種はわかっていない。

そして翌日、スパイトフルはさらに多数の船からなる船団を確認し、遂に魚雷攻撃を敢行する。

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2017年2月21日 (火)

HMS Spiteful P227

Spiteful 







     英軍潜水艦スパイトフル(HMS Spiteful P227)
       艦長の回想本(後日また触れる)の栞より

父の機帆船を襲った潜水艦を探し始めたのは2012年からだった。
手がかりは、父の遺稿と戦友会誌だけである。日本側の記録として残っていそうなのは、潜水艦を攻撃した日本機の所属部隊や戦闘詳報・電文などであるが、小さな出来事でもあり、途中で諦めてしまった。
むしろ連合国側の資料を確認した方が効率的かも知れないと考え、潜水艦の行動を素速く探すために、uboat.net のサイトで調べることにした。便利だったのは、日毎の潜水艦の行動やパトロールレポートの概要を見ることができたことである。しかし「シグリ沖」で6月末に活動していた潜水艦に該当するものはどうしても見出せなかった。ここまですでに2年が経過していた。

諦めようとしたころ、初歩的なことを疑ってみた。はたして船団は出港後2日ぐらいでシグリ沖に達することができるのだろうか、と。
考えてみればベラワンからシグリ沖までの距離は約500㎞ほどである。大発などの小型舟艇もあるのだから、昼夜全速で航行したとしてもそこまで到達するのは難しいかも知れないと考え始めた。また、経由地ロークスマウェには6月30日、当面の目的地であったオレレ港には7月3日到着だったという資料も見つかった。最初2日間、船団はかなりゆっくりと航行していた可能性があった。
そこで6月28日~30日にかけてのベラワン周辺の潜水艦情報を粘り強く調べてみたのである。するとある日、複数の潜水艦の中で、船団に「魚雷攻撃」と「艦砲射撃」をした潜水艦がついに見つかった。2015年が明けたころのことであった。

それは「スパイトフル(Spiteful)」という名の英軍潜水艦であり、当時の艦長はカナダ出身のフレデリック・シャーウッドであった。潜水艦は沈没していなかったのである。

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