Ⅶ 降伏

2017年4月24日 (月)

ニースン病院

1946(昭和21)年7月、父はリババレーを離れてシンガポール島中部の「ニースン」へ転じた。ここには日本の元陸軍病院があり、作業は病院の衛生材料などの整理であったが、実質は帰還する日までの待機場所であったようだ。
7月になって、私を含む何名かは日本人病院の作業隊に移った。今までのような厳しい強制労働もなくなり、軽作業だけの比較的自由な生活を送ることができた。
リババレー演芸場に倣って自前の小さな演芸場が建てられた。私も患者たちと共に劇に参加したりした。はやく家族のもとへ帰りたいと思う気持ちがつのるばかりであったが、帰還予定の日は全く知らされず、絶望的だと思い始めていた。ある日、病院の患者送還に立ち会った際、病院船の一人の看護婦と話をしていたら、岐阜の恵那出身であると知らされ、彼女から岐阜空襲の被害のことなどを聞くことができた。私は急いで家族宛の手紙を書いて彼女に託したのである。

下は、ニースンの演芸場完成時の写真。最後列右端が父。
Neesoon_2


| | コメント (0)

2017年4月23日 (日)

手作り歌集

父の遺品のなかに手作りの「歌集」があり、リババレー作業隊にいた頃に作成したものと思われる。上演された劇などの劇中歌もあり、隊員たちが一緒に歌うためにつくったらしい。使われた用紙は軍用の通信用紙の余り物20枚ほどを使い、60曲の歌詞が記されていた(クリックすると拡大できます)。
Cci_000014_3Cci_000015_3

ほとんどは戦前の歌謡曲だが、やはり内地帰還を待ち侘びる心情に訴える歌が多い。南の島、椰子の葉、南十字星、汐路、故郷などの言葉に、苦しかった戦いの日々を偲び、望郷の思いを募らせたのだろう。
参考までに、隊内でつくられた『リバ(ヴァ)バレー作業隊の歌』を記しておく。隊員たちの当時の心情が、この歌詞の中にすべて織り込まれているように思う。
『リババレー演芸史』には三番までしか掲載されていなかったが、父の歌集には五番まであった。両者で歌詞の語句などに若干の相違はあるが、父の歌集にあるものを記した(なお、部分的に判別しがたい文字があり、文脈に合うよう補った)。
作詞は室坂外之、作曲は出戸位待。

 リヴァバレー作業隊の歌
一 緑の光 若き土 映える希望の黄金雲
   集ふ七千 いざ共に 新生日本へ轟く歩調
   いのち高鳴る朝明けだ 我等リヴァバレー作業隊
二 灼けつく太陽 玉の汗 街にオフィスに工場に
   打つぞ此の鍬ハンマーに 湧き立つ気魄よ故郷迄響け
   示す男子の心意気 我等リヴァバレー作業隊
三 嵐も何んぞ 打堪へむ 胸にあの日の御大詔
   昨日を捨て 新しい世紀の象徴(しるし)を今先立てて
   国を挙げての総だすき 我等リヴァバレー作業隊
四 南の嵐 椰子の葉よ 燃ゆる夕陽の地平線
   夕餉を楽しく語らえば 夢見る故郷あの山河
   空に招くか十字星 我等リヴァバレー作業隊
五 微笑む海よ あかね雲 薫る故郷の花を乗せて
   やがて来る来る希望船 鍛へ乗り切れ腕組み交わし
   晴の前途の陽に謳へ 我等リヴァバレー作業隊

| | コメント (0)

2017年4月21日 (金)

『リババレー演芸史』

Dsc02060cc
『リババレー演芸史 想い出は星の如くに』
栗田まさみ著 加太こうじ装幀 新泉社 1970年

この書と父の回顧をもとに、収容所につくられた演芸場について少し記す。

内地帰還の日はいつになるかもわからず、重労働が続くだけの毎日が続いていた。殺伐に流れがちな収容所の日常に、わずかな時間でも慰めの時間があればと考えた人々がいた。
リババレー作業隊に父が派遣されたのは1946(昭和21)年3月であったが、翌4月下旬には隊の中に「第80中隊(演芸中隊)」がつくられ、演芸場の設営や公演内容の計画が立てられた。翌5月9日には演芸場が完成し、11日に第1回公演が行われた。英軍との交渉で設営要員は確保したものの、わずかな人数しかいないため、作業から帰った多くの隊員が協力したという。
作業隊会報で皆に協力が呼びかけられ、舞台装置や演劇などに必要な材料集めが行われた。板切れ、レンガ、布切れ、馬の毛、現地娘の使いの残りの白粉、紅、古釘、ひびの入ったレンズなど、廃材やゴミの類いを隊員が毎日持ち寄ったという。
父たち元工兵であった者が演芸場の設営にあたった。
とくに我々工兵であった者の活躍はほとんど神業といえるようなものであった。舞台の奈落に通じるオーケストラピットの区域も確保し、設営には一か月もかからなかったと思う。
この演芸場では、昭和22年の夏まで合計35回の公演があった。私は演芸場の完成から2か月ほどで転出したが、ほぼ1~2週間毎に2日間にわたり、オペレッタ、時代劇など多彩な公演が行われた。
八千人近い隊員の中には、平時に音楽家、画家、演劇関係者だった者もいた。とくに廃材を利用した楽器作りは工夫が必要だった。バイオリンはブリキ製、ギターやマンドリンはベニヤ板、コントラバスの弦は太い針金に銅線を巻き、ドラムは天幕の布を利用した。楽譜や脚本を書くための紙は作業で拾った紙切れを使ったり、ゴミを利用して衣装やかつらをつくったという。第1回の公演でシネオペレッタ「花祭狸御殿」を演じたとき、踊り子(海軍の十代の若者)が多数出演したのを見た監視のインド兵が、彼らを女子と見間違えて公演後面会を強要したとか、或る女形がインド兵から一斗缶に入った石鹸のようなものをもらったら、実はチーズだったという話もあったという。
Dsc02062vv_5隊員にとって、公演でのひとときは、いつになるかわからない帰還の日を待ち侘びる望郷の思いを慰め、日々の作業の疲れを癒やしたにちがいない。だが、リババレー演芸場の公演は、次第に内地帰還が進む中、1947(昭和22)年8月の第35回をもって静かにその幕を閉じた。

| | コメント (0)

2017年4月20日 (木)

リババレー作業隊②

ポツダム宣言には、
「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ」
とある。元兵士の早期帰還はGHQにとっても大きな課題であったが、それは必ずしも順調ではなかった。
東南アジアの日本軍の主体は「南方軍」であり、陸軍約61万人、海軍12万人の合わせて約73万人、民間人約5万人、総計78万人余りであった。しかも兵士は東西約5千㌔にわたり分散配備されており、東南アジア連合軍(SEAC)としても、どのようにして日本軍を統御できるか、大きな不安をもっていたといわれる。とりわけ主体となる英軍にとっては頭の痛い問題であったが、このことは後に触れることにする。

父たちは、ラヤンラヤンから順次シンガポールなどにある収容所へ移されていった。
1946(昭和21)年3月10日、ラヤンラヤンでの生活に別れを告げ、連隊としては第2回目の派遣要員30名の一人としてシンガポールの「リババレー作業隊」に行くことになった。
前年の12月1日付けで私は「曹長」となっていたが、その前日に帝国陸海軍は解体していたのである。
降伏後間もない頃の収容所は、どこも過酷な状況であったらしい。開戦時のマレーやシンガポールの戦いで捕虜となった者が監視役となり、報復的労働を強いたり、わざわざ炎天下に衆人環視の場を設けて、解放された元捕虜や一般市民への見せしめ的な作業をさせることも多かった。そのため作業隊員のなかには、逃亡を企てたり、監視兵の仕打ちに耐えかねて殴り倒したところ、「戦犯になってしまうぞ」と誰かからいわれ、自暴自棄になってテント村に帰って自決した者もいたそうだ。
しかし私の来た当時のリババレーは、環境がかなり改善されていたようだ。所長が交代したことが大きかったらしい。人員は八千人ぐらいで、広大な敷地に天幕(テント)が張られていた。
ほぼ1個小隊が作業班として編成され、英印軍の要求で各地区の作業を分担した。私の小隊は、はじめ港湾土木作業が多かったが、やがて病院等で衛生材料の整理を指示された。日本軍の倉庫に入り、朝から夕方まで作業が続いた。こうした日課が約半年余り続いたのである。朝昼の食事は乾パンが数枚程度で、夕食の配給レーションも空腹を満たすことはなかった。栄養不足を補おうとして、衛生材料のカルシウム剤やブドウ糖をこっそり拝借するなどしたが、それも一時的な気晴らし程度にすぎなかった。

苦しい作業だけが続く収容所生活ではあったが、楽しいことが無かったわけではない。彼らの中から演芸場を作ろうという計画が持ち上がった。

| | コメント (0)

2017年4月 6日 (木)

リババレー作業隊①

Po

上のシンガポール地図は、1940年代の幾つかの地図資料をもとにして作成してみたものである。
1920年代から英軍が島全体を要塞化し、とくに南側はトーチカや砲台で覆い尽くされ、「東洋のジブラルタル」といわれたが、1942年2月、日本軍の北からの攻撃に絶えられず約10日間で降伏した。以来、日本軍の拠点のひとつとなり、昭南島といわれた。

さて、ラヤンラヤンで自活していた連隊主力は、やがて順次作業隊派遣を命じられ、シンガポール等へ分散配置された。作業隊は、数名~135名の単位に分けられ以下のような地区へ派遣されていった。
『ケッペル』作業隊 135名   『ジョホール」作業隊   70名
『テンガー』作業隊  38名  『リババレー』作業隊   30名
『エンドウ』作業隊    14名   『クアラルンプル』       24名 など

なお、降伏時に連隊主力に合流できず、配備されていた地区でそのまま武装解除となった者もあり、上記人員は船工10連隊全体の派遣実態を示すものではない。
シンガポールに限って言えば、上記以外の収容所は、英陸軍が管理したチャンギ、タンジョン・パーカー、ウッドランド、ローヤン、ホーランド、英海軍が管理したセレター軍港、センバヤン、ブラカンマティなどであった。

1946(昭和21)年3月、父が派遣されたのは『リババレー』作業隊であった(のちにニースンへ移動)。父が派遣されたとき、収容所の環境は開設当時よりも随分改善されていた。しかし開設当時は過酷な報復的な作業を命じられたり、劣悪な環境に置かれ、ずいぶん荒れていたらしいが、その後は所長の交代もあり改善されていったらしい。

次回からリババレー作業隊の回顧を見る。

| | コメント (0)

2017年4月 1日 (土)

ラヤンラヤン

Rayanrayan_3

1945(昭和20)年10月9日からラヤンラヤンでの生活が始まった。

ラヤンラヤンは、武装解除された連隊の自活の場所であった。駅で降ろされた我々は、駅近くのゴム農園のある場所で当分の間自活せよという指示を受けた。
私がラヤンラヤンで生活したのは約半年間であり、その後シンガポールの作業隊に行かされることになる。
ここでは、英連邦軍の監視・管理はそれほど厳しくなかったが、少なくとも500人近くいた我々には住居もなく、生活のためのあらゆる施設を一から造らねばならなかった。自立自活の生活は、しかし後の作業隊のときに比べれば自由度が大きく、まだ隊員の団結心も強かったのである。
まず小隊毎に掘立小屋を作るよう指示があった。小屋の資材はジャングルから木材を調達して作り、風呂場、調理場なども設営した。英軍からの食糧配給は僅かであったから、カタツムリ、蛇、トカゲなどが食材となった。配給物は近隣の農家と交換し、野菜・芋などを手に入れたり、農作業を手伝って家畜を分けてもらうこともあった。近くの川では漁労班が活躍した。炊事を担当した私は、塩などの調味料が不足したため味付けに苦労したことを覚えている。

ラヤンラヤンに父は半年拘束された。英軍からの支給品は少なく、不足食糧は自分たちで調達した。しかしまだ後の強制労働作業は無く、連隊としての組織も残っていたため、互助と協力による生活は維持できていた。

やがてレンパン島シンガポールから噂が入ってきた。我々の連隊から順次送り込まれている収容所では、食事も満足に与えられず、日々報復的作業労働が課せられ、病死や自決する者も出ているらしい、と。
隊員の間に大きな不安と動揺が広がった。
00_2
[ラヤンラヤンを偲ぶ]
戦友会誌の挿絵より
レーションの空き缶でウクレレやバイオリンを作って演奏し無聊を慰め、天幕で登山帽なども作った、と記されている。


     

| | コメント (0)

2017年3月29日 (水)

武装解除・悲哀・罵声

武装解除は、クアラクブで行われた。

推測ではあるが、父たちの連隊を武装解除したのは「インド軍第25歩兵師団」だと思われる。ポートセッテンハム付近に上陸した英連邦軍の部隊である。
武装解除は9月28日であった。父は次のように回顧している。

到着後、我々は広場に集合させられ武装を解除された。式典は物音ひとつしない静かなものであった。式後、我々は裸にさせられて私物の検査が行われ、下着の褌までその予備一切を取り上げられた。ものは人絹(スフ)だったが、監視のインド兵は何かの絹製品と思ったらしく、彼らの中には、ニヤニヤしながら頬ずりをし、スカーフのように首に巻いて得意げにしている者もいた。その姿を見た我々は、思わず下を向いて笑いをこらえるしかなかった。

その後、70㎞ほど徒歩でクアラルンプルに移動させられたのであるが、一般邦人も含まれていたため歩みは遅く、予定時間に着かねば捕虜になるとの指示があったので、ほとんど徹夜での移動だったようだ。

この徒歩移動で私は自転車の運搬を兼ねて、伝令任務をしながら隊列の前後を往復していた。しかし山道が多く、自転車を引きながらの移動が大半であった。だが到着直前に、突然インド兵に銃で胸を突かれ、激しく押し倒されたのである。面食らっていると、インド兵は自転車を持って行ってしまった。何も抵抗できない自分が情けなく、降伏の惨めさを初めて思い知ったのである。
クアラルンプルのスンガイベシ駅に到着し、貨物列車に乗る準備をしていたとき、駅に集まった群衆が我々に石を投げ始めた。あのときの「バッキャロー」という罵声を私は今も忘れることができない。

列車の行き先は、マレー半島南部の「ラヤンラヤン」であった。

| | コメント (0)

2017年3月28日 (火)

大移動

8月15日から月末まで、父はポートセッテンハムで事務作業に追われていた。そうしたなか、日本軍に対して連合国はその上陸地点から離れるよう命じている。このため父の連隊も移動することになり、約2か月間各地を転々とすることになった。
この2か月間の移動について、父の記憶は曖昧だった。
そこで戦友会誌をもとに整理した。

              Photo_5_20201029143101

       
9月 1日  連合国との交渉のための連隊要員を一部残し、連隊の大半は
      列車でクアラルンプールに移動。
9月14日 列車にてタンジュンマリムへ移動。
9月28日 徒歩でクアラクブへ移動。武装解除。
10月?日 クアラクブから輜重車、荷車を曳き、一般邦人も含め
         クアラルンプールまで徒歩移動(約70㎞)。
10月 8日 市の南部スンガイベシ駅から列車で南のラヤンラヤンまで移動。

次回は武装解除の様子をみる。

| | コメント (0)

2017年3月25日 (土)

8月15日

日本軍が「終戦の詔勅」を受け、その戦闘行動を停止するまでの過程は、地域によって異なる。南方軍では、一切の武力行使の停止は8月25日零時とされた(8月22日付け大陸命第1388号)。
父の連隊が武装解除のために移動を始めたのは9月1日であった。8月15日から月末までの様子を父は次のように記していた。

8月15日昼、連隊本部の会報ラッパが鳴った。私は命令受領者として参集し、「終戦の詔書」の内容を受領するとともに、連隊長から今後の留意事項も同時に受け取った。
中天の太陽がいつもより眩しく輝いていたようにみえた。このとき中隊長らは昼食のため集会所にいたので、私は中隊幹部に直ちに終戦の旨を伝達・報告した。かれらはすでに予期していたかのように、その報告を静かに聞いているだけであった。
この日の私は、終日事務作業や報告業務などに忙しく、戦争が終わり、日本が降伏したという感慨にひたる余裕などなかったのである。しかし業務が一段落してふと我に返ると、これまでの自分を支えてきた兵士としての使命感が何となく失われ、虚しい気持ちになったことは事実だが、日々の忙しさは何も変わらなかった。

連隊の作戦活動は中止され、各地域に分散配備されていた隊員の復帰が命じられた。私は中隊本部の関係文書の処分を指示したり、下士官・兵の俸給6か月分の支給を軍事郵便貯金通帳に記載するなどの事務作業に追われていた。他部隊から依頼された弾薬の処分、軍票の処理も行われていた。
とくに、自分の日誌など私的書類・写真をすべて処分したときは、これまでの軍隊生活が無になるようで、全く痛恨の極みであった。
「詔書(承詔の誤記か)必謹」が連隊長から強く指示されたが、一部の兵はあくまで徹底抗戦を叫び、あるいは敗戦の事実を受け入れられずに自暴自棄になる者も多数いた。しかしながら、日が経つにつれ、大多数はこの事実を受け入れていったのである。
こうした混乱のなかでも、私の下士官としての仕事は何も変わっておらず、軍から次々に入電する文書や連合国側からの伝達などの整理に追われていた。

だがいったい連合国軍はいつどこから上陸してくるのか、それが全く不明だった。

| | コメント (0)

2017年3月21日 (火)

降伏時の悲劇②

Photo                  偵察隊の経路

「深刻な情勢変化」とは何であったか。いうまでもなく日本が降伏するかもしれないという情報が連隊に飛び込んできたのである。そこで8月13日には、連隊要員が現在行っている偵察を含む作戦行動、出張・派遣の命令をいったん中止する旨連隊本部から各部隊に連絡されたのである。ペラ河偵察の偵察隊にも、13日テロカンソンでその連絡はなされたのであるが、偵察隊は任務はすぐ終わると考え、翌14日そのまま河を遡上し、偵察を続けたものと考えられる。

14日午後5時、浅瀬が多く遡上に苦労していたところ、カンポンガジャ付近で大発が浅瀬で座礁し航行不能になった。小発で何度も曳いたが脱出できず、翌15日朝に再度試みることになった。
15日朝から作業をしていたところ、午前11時、河岸から突如一斉射撃を受け、隊員全員は水に入り舟艇を盾にして銃弾を避けたが、武器は舟の中にあり、ほとんど反撃できなかった。そのため舟艇に火をつけて逃げようとしたが、敵ゲリラの銃撃は止まず、ついにM少尉はじめ隊員の大半は被弾、水没してしまった。わずかに傷を負った2名のみが下流のテロカンソンに流れ着いた。8月15日の出来事であった。

中隊本部にいた父は、翌16日午後2時頃に長距離電話の緊急連絡を受けている。下流で救助された二人のうちどちらかがテロカンソンからポートセッテンハムに電話したものと思われる。連隊内は、すでに前日15日に降伏を知ってから一部兵士に動揺もあり、偵察隊への襲撃を知って「仇討に行かせてください」と銃を取る者も多数あったそうだ。しかし、すでに降伏している状況では、結局誰も行動することができなかったのである。

偵察隊14名のうち、1名が事故で水死、11名が戦死、2名が生き残った。後日、生き残った一人が警備隊とともに現場確認をし、2名の遺体を発見したとのことだが、他の隊員については不明のままとなった。日本の敗戦を知ったゲリラが、武器類を奪うために行ったものと推測されている。戦時中、この連隊で一度にこれだけの犠牲者が出たのは初めてのことであり、しかも降伏の日の悲劇として、隊員には辛く悔しい記憶となったとのことである。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧