Ⅰ はじめに

2017年1月 8日 (日)

軍歴 その2 「東南アジア」

1943(S18)年 21歳
6 (?)   シンガポール上陸後、チャンギー地区に駐留
   偶然、ビルマへ移動中の親族と面会
           連隊から船舶工兵第12連隊の基幹部隊として
           一個中隊が転出し、ラバウルへ
8.  3  スマトラ島北部の「ベラワン」へ移駐
10. 1  機雷掃海のため「パレンバン」へ出張
11.25   ベラワンに帰隊
12. 1   陸軍軍曹

1944(S19)年 22歳
6.28 アンダマン諸島への移駐作戦のためベラワンを出港
 29  英軍潜水艦(Spiteful)が船団の父の乗る機帆船に
   3発の魚雷攻撃

 30  同潜水艦が浮上して同じ機帆船に艦砲射撃
        (友軍機雷撃するも潜航退避)
8.31 連隊主力はアンダマンへの移駐を断念
      マレー半島の「ポートセッテンハム」に移駐
11.1  現地徴兵初年兵教育の助教(2度目)
12.16 レイテ島で工兵第26連隊全滅
   (456名戦死・生存1名?)


1945(S20)年 23歳 
2.16  二度目となる初年兵教育終了
7.9  B29による岐阜夜間空襲(実家焼失) 
8.15  「大東亜戦争終結の詔書」  連合国軍に降伏
        現地ゲリラが連隊の三宅偵察隊を襲撃(13名戦死)
9.15  「クアラルンプール」へ移動
        「タンジュンマリム」へ移動
        「クアラクブ」へ移動(武装解除)
        「ラヤンラヤン」へ移動し、連隊単独で自活生活
12.1  陸軍曹長

1946(S21)年 24歳
3.10  シンガポールの「リババレー作業隊(収容所)」へ派遣
        主に港湾土木作業、衛生材料整理などの作業に従事
   この間、作業隊内に演芸場設営
7.26  シンガポール中部の「ニースン日本人病院」第二衛材科
   へ派遣。ここでも演芸場設営

1947(S22)年 25歳
1.7 病院患者の内地移送のため英軍病院船 Oxfordshire
   患者付添者として乗船(主に炊事係)
1.20 広島・宇品港に上陸(史料では19日に病院船着とある)
         宇品引揚援護局で検疫及び復員手続き 
1.23  岐阜の実家で復員完結(25歳誕生日)

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2017年1月 7日 (土)

軍歴 その1「東アジア」

あらかじめ、父の大まかな軍歴を「その1」「その2」として記しておきます。

1922(大正11)年岐阜市生まれ。夭折した3人以外に兄弟は7人。三男。
高等小学校卒業後、工員となるも、18歳で陸軍に志願。
野戦工兵、渡河工兵を経て船舶工兵に。戦時最終階級は軍曹(降伏後曹長)。
中国、スマトラ、マレーを転戦。降伏後シンガポール等で約1年半の抑留生活。
なお軍歴の詳細は、父が書き遺したもの以外に、私の調査した結果も含みます。

 

1940(S15)年 18歳
12. 1  志願兵として豊橋の工兵第3連隊入隊  北支派遣要員となる
12. 8   熱田神宮参拝後、名古屋港から出征  「大日丸」に乗船
12.16   天津・大沽(太沽)に上陸
12.19   山西省「大同」 第26師団「工兵第26連隊」第二中隊編入

1941(S16)年 19歳
 4末   第1期初年兵教育修了
6.  1   陸軍一等兵 
6 (?)   将校斥候の一員として外蒙国境偵察(五原?五奉子?)
6~8   「包頭」で渡河訓練
9 (?)   連隊は「河南鄭州攻略戦」に出動するも自身は残留
         温河の大同鉄橋の警備等に従事  9月末、母の訃報を知る  
12. 8   米英両国への宣戦詔書

1942(S17)年 20歳
3. 1   「開封」「関東軍 独立工兵第53大隊」へ編入
5. 1   陸軍上等兵
6 (?)  「斉斉哈爾」「関東軍下士官候補者隊」へ派遣
10. 1  大隊は「浙贛(セッカン)作戦」に参加( ~11月)
11.25  陸軍兵長
11.30  下士官候補者教育修了
12. 1  斉斉哈爾より「蚌埠」の原隊に復帰
12.25  陸軍伍長
        「船舶工兵第10連隊」要員として上海へ移駐
          補充兵第一期教育の助教(~1943.2)

1943(S18)年 21歳
3 (?)  上海の「呉淞」へ移駐
4.16   舟艇特別訓練のため広島・宇品「陸軍船舶練習部」へ出向
4 (?)   特別休暇で岐阜の実家に帰省
6. 9  突然訓練中止となり、特殊船「摩耶山丸」で宇品を出港
          伊万里湾から「吉林丸」と2隻で出港 
          第38号哨戒艇(もと駆逐艦「蓬」)も呉淞まで同行、
          のち離脱 
6.10   呉淞に寄港  連隊要員と舟艇を乗せ、「関西丸」も合流して出港 
          途中、台湾・澎湖島「馬公」に寄港   
6.20   シンガポール港着 停泊後上陸

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2017年1月 6日 (金)

はじめに

このブログは、父の遺稿「従軍略記」を編集したものです。

タイトルはブログ用に改名し、「海の陸兵」としました。
父から聞き取った体験談、私が調べたことなども付け加えてあります。元になった「従軍略記」そのものは、すでに2年前、小冊子にして縁者・知人には配付しました。このブログ記事では、原文の一部はそのまま掲載してありますが、むしろ私の調べたことを題材にして、父の軍歴をより詳細に辿ることに重きを置いたものにしました。そのため、記事は軍歴の順番にならない箇所もあるかもしれません。

父の軍歴には、世に有名な作戦や戦闘への参加はありません。でも、英軍潜水艦から攻撃されたことやシンガポール等での厳しい抑留生活は経験しています。戦争から生還できたからこそ書き遺すことのできた事実とその記憶は、大切にしたいと思っています。
遺稿の編集は、もともと父の供養にと思ったことがきっかけでした。1週間もあれば出来上がるだろうと予想しての作業でした。ところが詳しく読み、編集するにつれて、先の戦争について調べたり、父の生きた時代を振り返ることに多くの時間を費やすようになりました。
この遺稿を記した父の願いも、実はそうした時間を私に与えることにあったのではないかと思うようになりました。編集中に、生前の父が知りえなかった事実も明らかになり、内外の人たちと連絡を取り合うこともできました。

先の戦争では、大正生まれで高小卒の若者が兵士の大半を占めていました。父もまたそうした若者のひとりでした。彼らの大半はすでに世を去り、その子の世代も次世代に後ろ姿を見送られようとしています。これを読んでくださった方々が、父の記憶のほんの一片だけでも受け継いでくださったのなら、父の願いは叶えられたと思っています。

*上述の編集の経緯は、いずれ詳しく記すことにします。
*全体は幾つかの章(ブログではカテゴリー)に分けてあります。
*人名は、数名の方を除き、すべて匿名扱いとしました。
*掲載の「絵葉書」は、ブログ主の蒐集したものです。

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