Ⅷ 復員

2017年5月15日 (月)

復員完結

広島の惨禍に衝撃を受けたあと、広島駅から故郷岐阜に戻った父は、やはりここでも戦争の大きな傷跡を目にする。
1945(昭和20)年7月9日深夜から翌10日にかけて空襲を受けた岐阜は、その市街地の大半を焼失した。父の実家も焼けたが、幸い家族は全員無事であった。家の再建が成ったのは昭和23年になってからであり、それまで大家族は窮屈な苦しい生活を強いられた。
なお、岐阜空襲の概要をまとめたサイト( こちら
があり、さらに、岐阜空襲時に日本軍機の攻撃を受けたB29の搭乗員がその体験を回顧しているサイト( こちら )もある(岐阜空襲についてはいずれ記す予定である)。

さて、父の回想記の最後は次のように記されていた。


何人かの同僚と再会を約束したあと、広島駅から復員列車に乗り込んだ。沿線の都市を車窓から眺めると、どこも空襲の被害を受けており、想像していたより内地は無残な姿を晒していた。4年前の春に一時帰国したとき見た色鮮やかな故国は、寂しい冬景色へと変わっていた。
 夕闇迫る頃、岐阜駅に着いた。駅に引揚者用の休憩所があり、お茶飲み場が備えてあった。そこにいた係員から帰還の事情について簡単な質問をされた。その日岐阜で下車した復員兵は私ひとりだったようだ。
  鉛を張ったような冬曇りの空が冷たく広がっていた。茶を啜りながら、変わり果てた市街を眺めると、焼き払われ背が低くなってしまった街並みの背景に、妙なものが見えてきた。長良川の堤防だった。かつては、ここから眺めることなどできなかった風景である。往来する人々も戦争で肉親や友を失い、空襲で家が焼かれたのであろうが、ようやく当たり前のそして忙しい日常が戻りはじめているようにみえる。
 無造作に建つバラックを歩き見ながら、懐かしい忠節橋通りを北に向かってひたすら進んでいった。家族への手土産は、あの気さくな英軍将校が飯盒に溢れるほど詰めてくれた砂糖だけであった。
 昭和22年1月23日厳冬。生還。復員完結。
  不思議なことに、この日は誕生日。25歳。
 二度目の人生を始めることになった。

父の回想記はここで終わっている。
原稿はほぼ同じ内容のものが4つ(第4稿は2002年)あり、何度も書き直されていた。これまで記してきた原稿は、1993年に書かれた第1稿をもとにしているが、私が父から伝え聞いた話も何箇所か織り込んである。

なお今後は、父の回想記に関連して私が調べたことなどを中心に随時記す予定である。

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2017年5月13日 (土)

ヒロシマ

復員列車に乗るため父は宇品から広島駅へ向かった。
どのような経路(宇品線か市電)で広島駅に行ったのかは不明であるが、途中で広島市内の風景を眺めたことだけは確かなようだ。被爆後約1年半後の市内について父は記している。

岐阜へ帰るために宇品から広島駅に向かった。戦争がもたらした故国の無残な姿を、このときになって初めて見ることになった。原爆投下後1年半経ってはいたが、市内はまだ荒廃したままだった。復興の兆しはあり、人々は家を建てはじめていたが、それでも町には静寂が支配し、一時帰国(昭和18年)したとき見た賑やかな町の姿は幻と思うしかなかった。
広島の廃墟を見ながら、悔しさ、虚しさ、悲しみが私の胸の中に渦巻いていた。すでに半世紀の月日が流れた今も、あのとき受けた衝撃は消えていない。

長く戦地にいた父にとって、4年ぶりに見る広島市街地の姿は衝撃であった。再建復興の兆しはあるものの、かつての姿は幻に思えたであろう。復員列車に乗ってからも、車窓から見る沿線の都市は、空襲による被害で往事の面影はなかった。
父にとっての広島・宇品は、ひょっとすると戦地などよりも戦争というものを強く実感し、当時の衝撃を思い起こさせる場所だったのではないかと思うのである。
後年、父は私を誘って広島・宇品に連れて行ってくれたことがあった。宇品港から広島湾を黙ったまま眺めていた父の、いつにない横顔を今も忘れることができない。

 

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写真について:
被爆1年後、昭和21年8月の広島市街地(上)と広島駅(下)
下記の写真説明では、被爆後1年経った再建中の広島を伝える
内容となっている。なお、市街地の写真は広島湾方面を捉えて
いる。
資料元:Australian War Memorial (AWM)
上:ID number 131783
HIROSHIMA, JAPAN. 1946-08-05. TAKEN FROM THE ROOF OF THE NEWSPAPER BUILDING, WHICH WAS ONE OF TWO BUILDINGS WHICH SURVIVED THE ATOMIC BLAST, SHOWING REBUILDING IN PROGESS [PROGRESS]ON THE WEST SIDE OF THE BUILDING, ONE YEAR AFTER THE BOMB WAS DROPPED.Public Domain Mark
下:ID number 131780
HIROSHIMA, JAPAN. 1946-08-05. RAILWAY STATION COMPLETELY REBUILT ONE YEAR AFTER THE ATOM BOMB WAS DROPPED.Public Domain Mark

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2017年5月12日 (金)

宇品引揚援護局 ➂

宇品の引揚援護局では、おもに東南アジア各地からの引揚・復員者を引き受けており、また送還者は、中国・台湾・朝鮮・沖縄など広範囲に及んでいた。その開設の1946(昭和21)年1月28日から翌昭和22年10月22日までの約1年10か月の業務期間に、引揚・送還者の総数は、引揚船100隻の169,023名、送還船16隻の41,057名に及んだ。
『局史』の記述を見ると、援護局員だけでなく民間の支援者や団体も業務に協力しており、とりわけ「未だいたいけな比治山髙女の生徒達が引揚者への歓迎と接待とに奉仕したことは眞に涙ぐましいものがあった」(11頁)と述べ、「沿革」の項目の末尾では、「宇品引揚援護局の業務は詩的な、そして史的な幾頁かを残して昭和22年10月20日その業務を閉鎖せられ同年末を以て閉局されることゝなったのである」(11頁)と結ばれている。
全国各地の引揚援護局は、ある意味で明治以来の大日本帝国の歴史を葬送する「史的な」役割を担ったのであり、引揚者と送還者が交錯する援護局のある港は、彼らが「詩的な」ともいえる感慨を胸にそれぞれの新天地へと向かう門出の地であったのだろう。

手続きを終えた父は、復員列車に乗るために宇品から広島駅へ向かった。だがそのとき見た光景は生涯忘れることの出来ないものとなった。

 

131648_2131652_2
写真について(宇品引揚援護局 昭和21年6月27日)
上:援護局関係者から説明を受ける復員兵と女性支援者。
下:比治山高等女学校の生徒から茶を受け取る復員兵。
資料元:Australian War Memorial(AWM)
上: ID number 131648
UJINA, JAPAN. 1946-06-27. FORMER JAPANESE PRISONERS OF WAR BEING INSTRUCTED ON PROCEDURE OF MOVEMENT TO BE ADOPTED WHEN DEPARTING FROM THE WHARF, AFTER THEIR ARRIVAL FROM SINGAPORE.Public Domain Mark
下:ID number  131652
UJINA, JAPAN. 1946-06-27. A JAPANESE SCHOOLGIRL HANDS A JAPANESE SOLDIER A CUP OF TEA AFTER THE REPATRIATE HAS COMPLETED REPATRIATION PROCESSING AFTER HIS RETURN FROM SINGAPORE.Public Domain Mark

*なおAWMの所蔵資料には、宇品引揚援護局で復員手続きをする
  帰還兵の様子を写した動画もある。( ID number F07467 参照)

なお、「宇品引揚援護局」については別ブログ『フクロウ日誌』の下記の
カテゴリーでも触れています。
  → 〈編集後記『海の陸兵』〉:涙の図書館(1)~(3)


   

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2017年5月11日 (木)

宇品引揚援護局 ②

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             宇品引揚援護局庁舎(撮影:昭和21年6月27日)
資料元:Australian War Memorial
ID number 131650
UJINA, JAPAN. 1946-06-27. EXTERIOR OF MAIN BUILDING AT UJINA REPATRIATION CENTRE. Public Domain Mark
この建物は1939年凱旋館として建設されたが、1943年陸軍船舶司令部、1945年宇品引揚援護局庁舎、その後は比治山移転前のABCC、さらに第六管区海上保安本部が使用していた。1970年取り壊され、現在は宇品中央公園に「凱旋館」の碑がある。
なお、この庁舎付近には前回の記事の写真に写っている国立病院や税関、荷物・人体消毒所、倉庫、印刷所などの設備があり、さらに宇品線を挟んで北側の大和地区には宿舎、集会・食堂施設等があった(現在はマツダ西工場・倉庫施設)。
なお Australian War Memorial にある他の資料は次回の記事に載せる。

父が帰還したとき、4年前に見たこの建物を懐かしく思い出したに違いない。父はこの宇品から呉淞に戻り、そのまま南方戦線に向かったのだった。

Photo
宇品の引揚援護局の宿舎に検疫や手続きのため入所した。見覚えがあったその部屋は、間違いなく4年前に上海から出張で宇品へ派遣されたとき使用した部屋であった。その偶然に驚くとともに、私は長い軍隊生活を振り返った。大きな作戦の要員から何度も外れていたという不思議な思いのこと、戦いで無念の死を遂げた戦友たちのことなどである。そして私はこの部屋が原爆で失われることなく私の帰りを長い間待っていてくれたような気がした。
復員手続きがすべて終わり、軍用の防寒套が支給されたとき、そういえば日本は真冬なのだ、とあらためて思ったのである。南方での長い生活は、私の季節感をまだ狂わせていたのであろう。
未払いだった抑留中の昭和21年2月から1年分の『給與通報』(上)を受け取ったが、金額は僅か300円であった。すでに現地にいるときから内地では物資欠乏と激しいインフレになっているらしいとの情報は得ていたから、この金額も雀の涙ほどもないことは予想できた。今後の生活の厳しさを思うと不安は大きかった。

なお、「宇品引揚援護局」については別ブログ『フクロウ日誌』の下記の
カテゴリーでも触れています。
  → 〈編集後記『海の陸兵』〉:涙の図書館(1)~(3)


   

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宇品引揚援護局 ①

1316491946年6月27日宇品引揚援護局に入るシンガポールからの帰還兵
資料元:Australian War Memorial
ID number 131649
1946-06-27. JAPANESE REPATRIATES MARCHING THROUGH THE GATEWAY OF THE REPATRIATION DEPOT AFTER THEIR ARRIVAL FROM SINGAPORE. SIGNS ON EITHER SIGN OF GATEWAY READ, (LEFT) LET'S DO OUR BEST; (RIGHT) UJINA REPATRIATION CENTRE.Public Domain Mark

宇品に着いたのは1947(昭和22)年1月20日と父は書いているが、『宇品引揚援護局史』では19日となっている。
父にとって宇品は2度目となる。昭和18年5月船舶練習部への出張以来である。
上の写真は1946(昭和21)年6月の宇品。門柱が立っており、衛兵はオーストラリア兵である。軍用桟橋から北側を写しており、見える建物は、原爆投下後ここに移転してきた「広島第二陸軍病院」であるが、このときは「広島国立病院」となっており、検疫や患者の治療を行っていた。この建物のすぐ左側に「陸軍船舶司令部」(旧凱旋館)があり、戦後は宇品引揚援護局庁舎となった。[以前の記事資料参照
門から入った復員兵・引揚者は、港に隣接する援護局施設で検疫、荷物検査等の手続きをし、必要に応じて宿泊もしたが、その宿泊施設は旧大和紡績寄宿舎(戦時中は陸軍船舶練習部の兵舎)が当てられていた。
もちろん援護局は送出業務も行っており、大日本帝国の旧植民地(朝鮮、台湾など)や沖縄へ戻る人々も宇品を利用していた。
次回は、父が回想した援護局のことを記す。

なお、父が帰還した船を含め宇品に寄港した「病院船」について、『宇品引揚援護局史』の資料では以下のような記録がある。

      入港月日            船名         患者数
昭和21年5月 6日 アマラポーラ         574
   21年7月23日 タイリーア         483
   22年1月19日 オックスフォードシャー   167
   22年1月28日 ジェルサレム       423
   22年4月12日 ドーセットシャー      380
   22年5月13日 オックスフォードシャー   360
   22年6月23日 アマラポーラ        454
   22年9月11日 ドーセットシャー      360
   22年9月30日 オックスフォードシャー   179
                       計  3,380
  『宇品引揚援護局史』 ゆまに書房 127-128頁
   

なお、「宇品引揚援護局」については別ブログ『フクロウ日誌』の下記の
カテゴリーでも触れています。
  → 〈編集後記『海の陸兵』〉:涙の図書館(1)~(3)


   

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2017年5月 8日 (月)

砂糖と階級章

宇品到着時のことを父は書いている。

宇品到着は1月20日(公式記録では19日入港:『宇品引揚援護局史』)の午後3時ごろであった。快晴青空の廣島である。国立病院の看護婦らが患者引き取りに来ていた。
  患者や付き添い者が慌ただしく下船を始めた頃、英軍将校が私の傍に寄ってきた。彼は食糧受け渡しなどで毎日顔を合わせており、英語を十分話せない私に対しても航海中随分懇意にしてくれた。互いに言葉の壁を乗り越えて親しく交流していた。だが、このときは少し緊張した顔をして甲板の隅に私を案内してくれた。
 甲板には乾燥野菜、米、缶詰、砂糖などの食材が大量に並べられていた。将校は次のようなことを話してくれた。航海への協力に感謝する。航海日数は予定より少なくてすんだから、食糧がこんなに余ってしまった。我々の必要量は十分あるから、これらをぜひ全部持っていってくれないか、と。
 私は内地が食糧不足であることは現地にいるときから知っていたので、どうにかしたいと思って炊事班の数名に相談をしたのである。しかし、私もそうだったが、彼らは一刻も早く故国の土を踏みたい一心であり、数十キロ近くあるコメの麻袋や一斗缶に入った砂糖や乾燥野菜を前にして、ただ呆然とするだけであった。しかもいったん下船すれば、もうこの外国船に戻ることは許されなかった。自分の手荷物だけを持ち出すのに精一杯であり、我々は感謝しつつも、結局何も受け取ることができなかったのである。
 すべての患者と付添者の下船が終わり、それを見届けた私も下船しようとしたとき、あの将校が再び私を引き留め、船室に案内してくれた。彼はしきりに私に感謝の言葉を述べ、私も拙い英語で感謝し、互いに任務を全うしたことを喜び合ったのである。このとき彼は私の背嚢にぶら下げてあった飯盒に気付き、それを持って甲板に行き、あの砂糖を詰めて戻ってきた。その厚意に対して私は何か彼に返礼できるものはないかと咄嗟に思ったが、手元にそのようなものは何もなかった。
 ところがある日の出来事を思い出したのである。その日彼が私の軍服に付いている階級章にひどく興味を示していた。軍も解体し、当時階級章など付けている者は抑留中からほとんどいなかった。その日たまたま着替えがなかった私は、階級章の付いた服を着ていたのである。すると彼は珍しそうに階級章を触り何かしゃべり始めた。しかし意味がわからず、私はただニヤニヤするだけだった。その後、ひょっとしたら彼は階級章が欲しかったのだろうか、戦勝の記念か戦利品にでもするつもりだったかもしれない、などとあれこれ勝手に想像していたのである。
 そんなこともあり、私は迷うことなく背嚢から軍服を取り出して階級章を外し(あるいは下船時は階級章を付けるよう指示があり、その時着ていた軍服には階級章があったかもしれない)、「プレゼントする」と言って渡した。すると彼もあの時のことを思い出したのか、満面の笑みを浮かべ何度もお礼を言ってくれた。そして互いに長い敬礼をしたあと、私はタラップを降りていった。

次回は、「宇品引揚援護局」について記す。

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2017年5月 7日 (日)

水葬

航海中、何回か行われた「水葬」について父は書いている。

残念なことに、船内で息絶える患者が数名あり、英軍水兵らによってユニオンジャックに包まれた遺体は、深夜船尾からその都度密かに水葬された。立ち会った我々付き添い者は、故国への帰還が叶わなかった彼らの不幸を思い、ただ黙って合掌することしかできなかった。あまりにも悲しく辛い葬送であった。
シンガポール港から風のように激戦地へ向かい、そして二度と還ることのなかった兵士たち、あの魚雷攻撃の恐怖、この水葬のことなどを思い出すと、私にとって海、潮風、港、船は今なお戦争の記憶から切り離すことができないものなのである。

シンガポールで初めて出会った親族はインパール作戦で斃れ、隣家の同級生だった友人は駆逐艦「吹雪」とともにソロモンの海に没した。よく「軍隊は運隊」といわれることがあるが、父はこの言葉を嫌っていた。自分が生還出来たことを「運が良かった」と他人から言われることを好まなかったし、自分からそう言うこともなかった。作戦要員から度々外れていたり、激戦地への派遣がなかったことを、回想記では、「不思議なことに」という表現を使っていた。戦場に斃れた戦友、親族、友人のことを思うと、生きて還ることのできた自分は「運が良かった」などと言えるはずもなかったのである。
そもそもあの戦争とは何だったのか、自分たち兵士とはいったい何だったのか、やがて父はそうした問いを晩年になって考えるようになっていったが、このことは「編集後記」で詳しく触れることにしたい。
次回は、宇品到着時の出来事について記す。

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2017年5月 6日 (土)

HMHS Oxfordshire

父が帰還時に乗船したのは、イギリスの病院船であった。
オックスフォードシャー号(HMHS Oxfordshire)。この帰還船のことは幼い頃から聞かされていたが、どのような船なのか全く想像できなかった。父の回想記を編集するなかで、初めてその姿を動画や写真で確認し、父の記憶を共にすることが出来た。

この船は約1万㌧で、すでに第一次世界大戦時から活躍しており、戦病者だけでなく、移民の護送などにも使われていた。最後はカラチの船会社に籍を移し、巡礼者を運んだりもしたという。船歴を見ると、この船が20世紀の戦争や紛争とともに世界の海を駆け巡っていたことがわかる。
参照:http://www.roll-of-honour.com/Ships/HMHSOxfordshire.html
 1912年リバプールで竣工。
 第一次大戦中は病院船として就航。
   ダーダネルス海峡で、トルコから撤退するANZACの兵士を救出。
   ペルシア湾や東アフリカ方面でも活動。約5万人を搬送。
 第二次大戦開始とともに、1939年、再度病院船として就航。
   1942年 地中海、アドリア海方面。
   1944年 東部ニューギニア、フィリピン、オーストラリア方面。
   1945年 沖縄方面(米軍援護)。
   日本降伏後も病院船として香港、シンガポール方面。
   日本への帰還船。中東方面。
 1949年 オーストラリア移民搬送。
 1951年 兵役解除、カラチの船会社に移籍。
   ジェッダ(サウジ)とカラチの間で巡礼者等を運ぶ。
 1958年 カラチで廃船

父が帰還したのは広島の「宇品引揚援護局」である。当時の記録によれば、オックスフォードシャー号は1947年に3回宇品に寄港している。いずれもシンガポールとの往復であったと思われる。その第1回目が父の帰還にともなうものだった。
なお、オックスフォードシャー号は、動画、写真で今も見ることができる。
動画サイトBritish Pathé
http://www.britishpathe.com/video/hms-oxfordshire(1943年)

下の写真はIWMからのもの。.© IWM (FL 17221)
http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//19/media-19704/large.jpg 
This is photograph FL 17221 from the collections of the Imperial War Museums. 
File:Hmhs Oxfordshire FL17221.jpgHmhs Oxfordshire At a quay.
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2017年5月 5日 (金)

さらばシンガポール

1947(昭和22)年1月、ついに父にも帰還の日がやってきた。

絶望と希望が交錯する抑留生活が続くなか、帰還の日は突然やってきた。12月暮れ、私を含む作業隊の一部がニースン病院の患者帰国に付き添うことになり、病院船への乗船を命じられたのである。患者は麻薬中毒者や精神的な病をもつ者がほとんどであり、過酷な戦場体験や抑留中の苦悩に堪えられなかった者が多く含まれていた。
翌1947(S22)年1月7日英軍病院船「オックスフォードシャー号」1万㌧は我々を乗せてシンガポール港を出発した。
 患者約500名、付き添いは臨時の看護者を含め45名だと記憶している。付き添い責任者は准尉であった。次いで曹長の私が彼の補佐役となり、船内の患者に供される食事の炊事班長となった。ついに帰還できるという喜びや安堵の気持ちはあったが、多数の患者の世話もあり、緊張感も入り混じったなかでの出航であった。
 船中の食事といっても、朝と昼は今までどおり乾パンが中心であり、夕食は英軍から1日分ずつ支給される乾燥野菜と僅かの米だった。それを我々炊事係が受け取り、調理場でおじやを作って配膳した。その量はどうみても非常に少ないものであったから、患者達からは不満が噴出したのである。出航してしばらくは、船酔いする者が多く、食事への不平は少なかったが、内地に近づくにつれ苛立ちは大きくなり、付き添い者たちは患者を宥めるのに随分苦労をしたのである。
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ニースンの日本人病院作業隊での抑留生活は半年余りだった。やっと帰還できる喜びはあったようだが、患者付添という仕事を兼ねての航海は緊張したことだろう。
それにしても患者の大半は精神的病をもつ人が多かったと記されているから、ここに書かれてあること以上に2週間の航海中、付添者は
ずいぶん苦労したのではないだろうか。
なお、帰還に際し、『従軍証明書』(左)が1月7日付け「南方第一陸軍病院長」の名で父に交付されていた。これで、1940(昭和15年)12月から約6年余りの父の軍隊生活は終わったのである。中国、満州、インドネシア、マレーシア、シンガポールと、極寒炎暑の地を転々と移動し、再び故郷へ帰ることになった。

次回は父の乗った病院船について少し触れる。

 

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2017年5月 4日 (木)

JSP・降伏日本軍人

降伏後の、父たち元日本兵の動向について少し記しておく。
英軍を主体とする東南アジアの連合国軍は、70万人を超える降伏した元日本兵を管理することになった。ポツダム宣言第9項によって元日本兵の速やかな本国帰還がなされるはずだったが、実際には東南アジアからの引揚・復員は、戦犯を除き1948年初めごろまでかかったのである。たしかに元日本兵の約60万人は1946年9月ごろまでには帰還したが、残り10万人以上は、マレー、ビルマ、シンガポール、タイなど東南アジア各地に強制的に抑留されたままであった。
武装解除された元日本兵は、Japanese Surrendered Personel 「JSP 降伏日本(軍)人」と呼ばれ、英国は日本のジュネーブ協定未批准等を理由として、いわゆる戦争捕虜(POW)とは見なさなかった。もし捕虜とすれば、ポツダム宣言により元日本兵の帰国に努めねばならず、彼らの生活は英国が負担することになる。そこで英国は、捕虜としての屈辱的待遇をよしとしなかった旧日本軍の思惑も利用し、元日本兵への財政的負担を日本政府に委ねることで自国の経済的負担を軽減しようとしたのである。一定の時期以降の抑留中の労働使役の賃金は、英国の査定によって最終的には日本政府が負担することになった。
父がいたマレーやシンガポールでは、現地復興の名目で英国による元日本兵の強制残留・労働使役が戦後1年以上過ぎても続いていた。彼らの速やかな帰還を要請する米国・GHQ・日本政府に対して、英国は様々な理由をあげて帰還を遅らせたが、必要な帰還船の配船、その燃料等の費用負担などの問題も対立の背景にはあったようだ。だが根本には、戦争による英国経済の疲弊があり、英国は戦後処理に関する経済的負担を軽減する必要に迫られていたのである。さらに、旧植民地を回復したものの、英蘭仏などの管轄地域では独立運動などの政情不安も続いており、現地の復興を急がねばならなかったのであろう。
父たちが所属した作業隊では、軍組織が解体しているとはいえ、旧軍の命令系統を保持したまま、連合国軍の指示に従って元士官の統率のもとに作業が行われていた。英国は数十万人の元日本兵の管理について不安をもっていたらしいが、結果的に大きな混乱はみられなかった。もちろんJSPの不平不満は絶えずあり、連合国軍と作業隊員の間に立った元士官らの苦悩については、父の戦友会誌にも数多く綴られている。
ともあれ、最終的に残留していた10万人以上の東南アジアからの引揚・復員は、降伏後約2年半経って完了することになる。
参考文献:「日本降伏後における南方軍の復員過程-1945年~1948年」
              増田弘
(東洋英和女学院大学現代史研究所紀要 )

なお、オーストラリア戦争博物館(Australian War Memorial)の資料から、1枚の写真を載せる。手前に作業をする元日本兵、中央に監視するインド兵、奥には元捕虜らしき連合国軍兵士が見ており、さらに奥の建物付近には多数の現地住民が環視している。こうした構図の写真は何枚も残されており、意図的に設定された場面のようにも見えるが、日本降伏直後の現地の様子を端的に物語っている。

写真説明:1945年9月11日、イギリスの海峡植民地シンガポール。聖アンドリュース大聖堂(イギリス国教会)の広場で、インド人部隊兵士の監視の下に日本人捕虜に防空待避壕を埋めさせている。
資料元:Australian War Memorial
ID number 117029
SINGAPORE, STRAITS SETTLEMENTS. 1945-09-11. JAPANESE POWS, GUARDED BY INDIAN TROOPS, FILLING IN AIR RAID TRENCHES IN THE GROUNDS OF ST ANDREWS CATHEDRAL (CHURCH OF ENGLAND).Public Domain Mark

 

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