復員完結
広島の惨禍に衝撃を受けたあと、広島駅から故郷岐阜に戻った父は、やはりここでも戦争の大きな傷跡を目にする。
1945(昭和20)年7月9日深夜から翌10日にかけて空襲を受けた岐阜は、その市街地の大半を焼失した。父の実家も焼けたが、幸い家族は全員無事であった。家の再建が成ったのは昭和23年になってからであり、それまで大家族は窮屈な苦しい生活を強いられた。
なお、岐阜空襲の概要をまとめたサイト( こちら )があり、さらに、岐阜空襲時に日本軍機の攻撃を受けたB29の搭乗員がその体験を回顧しているサイト( こちら )もある(岐阜空襲についてはいずれ記す予定である)。
さて、父の回想記の最後は次のように記されていた。
≪何人かの同僚と再会を約束したあと、広島駅から復員列車に乗り込んだ。沿線の都市を車窓から眺めると、どこも空襲の被害を受けており、想像していたより内地は無残な姿を晒していた。4年前の春に一時帰国したとき見た色鮮やかな故国は、寂しい冬景色へと変わっていた。
夕闇迫る頃、岐阜駅に着いた。駅に引揚者用の休憩所があり、お茶飲み場が備えてあった。そこにいた係員から帰還の事情について簡単な質問をされた。その日岐阜で下車した復員兵は私ひとりだったようだ。
鉛を張ったような冬曇りの空が冷たく広がっていた。茶を啜りながら、変わり果てた市街を眺めると、焼き払われ背が低くなってしまった街並みの背景に、妙なものが見えてきた。長良川の堤防だった。かつては、ここから眺めることなどできなかった風景である。往来する人々も戦争で肉親や友を失い、空襲で家が焼かれたのであろうが、ようやく当たり前のそして忙しい日常が戻りはじめているようにみえる。
無造作に建つバラックを歩き見ながら、懐かしい忠節橋通りを北に向かってひたすら進んでいった。家族への手土産は、あの気さくな英軍将校が飯盒に溢れるほど詰めてくれた砂糖だけであった。
昭和22年1月23日厳冬。生還。復員完結。
不思議なことに、この日は誕生日。25歳。
二度目の人生を始めることになった。≫
父の回想記はここで終わっている。
原稿はほぼ同じ内容のものが4つ(第4稿は2002年)あり、何度も書き直されていた。これまで記してきた原稿は、1993年に書かれた第1稿をもとにしているが、私が父から伝え聞いた話も何箇所か織り込んである。
なお今後は、父の回想記に関連して私が調べたことなどを中心に随時記す予定である。