Ⅹ 陸軍飛行第五戦隊

2020年4月12日 (日)

将校集会所(2)~ 飛五の機種改編 ~

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将校集会所エントランス(旧各務ヶ原飛行場・現航空自衛隊岐阜基地)
Nov./2018

記:訂正更新(字句修正等)2020/07/01

将校集会所(1)承前


山下美明氏はその手記(*1)のなかで、「屠龍(キ45)」が飛五にはじめて配備された日のことを懐かしく次のように書いている。

昭和十七年三月下旬のある日、私は飛行第五戦隊の第二中隊長として、千葉県松戸町郊外にある松戸飛行場で帝都防空の任務についていた。早春とは名のみで、まだ吹く風の冷たい日であったが、この日に屠龍(二式複戦、当時はまだキ45といっていた)が三機、はじめてわが部隊に機種改編のため到着することになっていた
《 
空輸してきた須賀中尉たちと挨拶する間ももどかしく、すぐに未修教育を受けるための説明をはじめてもらったが、説明のあいだにも私の目はキ45に吸い寄せられていたのである。中略)須賀中尉が説明をつづけるあいだに諸点検をおえたキ45は、燃料の補給をおえるのを待ちかねるようにして、さっそく私が第一番に飛ぶことになった

どこで受領されたのか氏は書いていない。しかし渡辺洋二氏によれば(*2)、この三機は川崎の岐阜工場のある各務ケ原飛行場で受け取ったものであり、その任務には第一中隊から須賀貞吉中尉、松井孝准尉、第二中隊から百冨貢准尉が各務ケ原へ赴いたという。あくまで想像だが、この時ひょっとしたら彼らはこの「将校集会所」にも立ち寄って休憩していたかもしれない。
この回想記は飛五に新しい機種が導入されたときの小さなエピソードであるが、受領のときの感動は戦後になっても山下氏にとっては忘れがたい想い出であったのだろう。実は屠龍受領から1か月後の1941(昭和17)年4月、米軍のB25による本土初空襲(いわゆるドーリトル空襲)があったとき、山下、須賀、百冨らの操縦する屠龍三機が松戸から飛び立ったものの会敵できすに終わっている(*1、*2)。
やがてその年の夏に飛五の全機が屠龍に機種変更となり、翌昭和18年に戦隊は柏から豪北方面へ移ることになる。そして1年後の昭和19年夏に飛五が南方から再び本土に戻ると、あらたに戦隊長として山下氏が着任し、愛知県の清洲飛行場を根拠地にして飛五は中京地区の防空任務につくのである。

なお上述の須賀大尉(最終階級)は「陸軍航空士官学校少尉候補者21期生」(*3)であり、彼と同じ21期生で、やはり飛五隊員だった岡部敏男中尉(最終階級)は、1944(S19)年5月27日高田勝重戦隊長のもとでビアク島沖に出撃している。この出撃を含め、ビアク島の戦闘に関わることはいずれ詳しく記してみたいと思っている。
また、樫出勇大尉も21期生である。彼は戦争末期に「屠龍」で本土防空にあたり、B29迎撃について貴重な回想録を残している(*4)。


参考
〇*1
「偉大なる愛機「屠龍』で戦った四年間」 山下美明
       
『陸軍戦闘機隊』 光人社 2011年 所収
       *初出は雑誌「丸」1970年3月号
〇*2『二式複座戦闘機「屠龍」』渡辺洋二 文春文庫 2008年
                 *朝日ソノラマ版(1989年)
〇*3『修武台の光と影』
           
 (陸軍航空士官学校少尉候補者第二十一期生記念誌)
                 航空二一会 昭和58年10月
〇*4『B29撃墜記 夜戦「屠龍」撃墜王樫出勇空戦記録』  樫出勇
                   光人社NF文庫 2005年
    Photo_20200405190201
    将校集会所前の、たぶん
山茶花。
    この年の山茶花は至る所で開花が早く、
    しかも花が多かった。
    幹が太く、かなりの老木と見える。 Nov./2018


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2020年2月18日 (火)

飛五と映画『進軍』 1930(昭和5)年

前回の記事「将校集会所」の続き「その2」を書くべきところだが、少し後回しにして、昭和初期の「飛五」にもかかわる或る映画の備忘録

数年前から岐阜空襲、そして同時に飛行第5戦隊の足跡についても史料を探していた時、昭和初期の立川飛行場を舞台にした映画がつくられていたことを知った(『立川飛行場物語』三田鶴吉著)。それは1930(昭和5)年に公開された『進軍』(監督:牛原虚彦)で、主演は鈴木傳明、ヒロインが田中絹代だった。まさに飛行機の時代の幕が開いたころの作品である。
戦後三田さんは田中絹代に当時の思い出を聞きに行ったが、すでにこの映画の記憶は薄れていたらしく、ほどなく彼女も亡くなられた。


三田さんは、立川(飛行場)が映画の舞台だったと書いている。撮影には陸軍省が協力し、各地の飛行場、飛行学校などもロケ地となったのだろう。冒頭のクレジット・タイトルを見ると、「飛行第五聯隊」、「気球隊」、「飛行第一聯隊」、「飛行第七聯隊」、「所沢、下志津、明野」の各飛行学校、その他にも師団や幾つかの部隊名の文字がみえる。たとえば主人公が出征する場面では、千葉の「下志津飛行学校」の本部・正門が映し出されている(本部建物などから推断)。
映画はサイレントだが、中間字幕にヒロインの兄が「飛行第廾五(25)聯隊の大尉」の台詞がある。もちろん架空の飛行連隊名ではあるが、「五」の数字を入れたところに立川の飛五との関わりを思わずにはいられない。

この映画は1929(S4)年には制作が始まっていたと推定できる。当時の世相をみると、昭和3年に満州で張作霖爆殺事件、翌4年の10月にニューヨークの株式大暴落から世界恐慌が起こり、昭和5年にはロンドン海軍軍縮会議と条約調印及び統帥権干犯問題、そして映画公開の翌年には満州事変が始まっている。

映画の後半は戦闘シーンで占められているが、題名から受ける印象とは違い、全体の基調は後の戦時国策映画にあるような戦意高揚一色ではない。
出征する息子の身を案じる父母の姿は、木下恵介監督の『陸軍』(昭和19年)につながっている。田中絹代は『進軍』でヒロイン役を、そして15年後の『陸軍』では、母親役としてラストの名シーン(特に最後12分間)を演じることになった。
原作はアメリカ人 James Boyd。監督の牛原の履歴も興味深い。

参考
『立川飛行場物語』 三田鶴吉(既出)
『進軍』 昭和5年 松竹蒲田撮影所10周年記念作品 (DVD有り)
『陸軍』 監督木下恵介 昭和19年 (DVD有り)

 

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2019年12月 8日 (日)

将校集会所(1)~ 飛五と各務ヶ原 ~

去年の11月、航空自衛隊岐阜基地恒例の「航空祭」に行った。
岐阜基地・各務ケ原飛行場の歴史については前に少し触れたことがある。
飛行第五戦隊の創設にも関係し、私の叔父が戦争末期に教導隊に在籍していたこともあって、やはり特別な意味をもつ飛行場である。当時の建物がいくつかまだ残っているので、改修(昭和63年)された将校集会所(大正9年)だけは是非見てみたいとこれまで思っていた。ふだんは申請が必要であるが、航空祭のときだけは一般公開で基地内を見学できる。
建物の南に樹木が植えられているため全体像はわかりにくい。東側からは、エントランスだけでなくバルコニーも垣間見える。ネット上では、内部を見学された方のレポートが幾つも拝見できるので、自分としては外観を見ただけで十分満足だった。

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          全景:正面に岐阜基地殉職者慰霊碑が建つ。
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           エントランス:大正期の建築様式を伝える。

飛五との関わりについて少し触れる。
大正期に各務ケ原の飛行第二大隊で訓練を終えて創設された飛行第五大隊(その後連隊→戦隊へ)は、立川や柏へ移ってからも各務ケ原との関係は続いた。昭和10年代に入り、一時期だけだが飛五が教育部隊として各務ケ原に移ったこともある。
また、開戦間もない昭和17年春、新しく配備予定の戦闘機を受領するために、各務ケ原飛行場へ飛五の隊員が出かけたことが記録として残っている。その戦闘機は、各務原の工場で組み立てられたキ45(「屠龍」)だった。

飛五の最後の戦隊長だった山下美明氏は、昭和17年当時、一時期中隊長として飛五に在任したことがあり、そのとき初めて飛五に二式複座戦闘機「屠龍」が配備された。彼はその配備の様子を戦後に回想している。
                                  →(2)へ

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2018年8月29日 (水)

「屠龍」の主車輪

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   「屠龍」の主車輪(旧かかみがはら航空宇宙博物館 2016年)

飛行第五戦隊といえば、「屠龍」(二式複座戦闘機)の名があがる。
しかし現在国内に「屠龍」の機体は残っておらず、胴体だけが「スミソニアン国立航空宇宙博物館」に展示されているという。ただし「屠龍」の車輪が上掲の写真のように各務原に遺されている。
展示説明では松本零士氏の寄贈とあるが、どのように氏が入手されたのかその経緯はわからない。いずれにしても機体の一部とはいえ、各務原に展示されていることはこの車輪にとって幸せなことなのかもしれない。ホイールは岡本工業、タイヤは中央ゴム工業が担当し、当時としては珍しく高圧チューブレス方式が採用され、実際に空気を入れてみたところ漏れはなかったという。

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二式複座戦闘機「屠龍」キ-45改 飛行第53戦隊(松戸)
(あいち航空ミュージアム 2F「名機百選」展示  2018年撮影)
  

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2018年5月24日 (木)

片影:立川飛行場(5)

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飛行第五聯隊全景及八八式偵察機」 複写許可済(絵葉書史料館蔵

この絵葉書には「飛行第五聯隊全景及八八式偵察機」と記されている。八八式偵察機が飛ぶようになったのは昭和初期のことであり、「聯隊」の文字もあるから、眼下に写された飛五の施設も昭和初期の姿であろう。左下にみえる兵舎や下士官集会所は、震災時に大きなダメージを受けたが、すでに修復されているようだ。
ひたすら訓練に明け暮れていた飛五隊員も、昭和に入ると戦雲暗くたれこめる時勢に身を置くことになる。1931(昭和6)年9月、満州事変がはじまると、飛五からも400名近くが出征する。昭和になってからの飛五の戦歴については、特筆すべきことのみ今後記していきたい。

ところで、満州事変勃発の直前8月に事件が起きている。ハバロフスクから羽田飛行場経由で立川飛行場に、突然アメリカの2飛行士が操縦する「ミス・ビードル号」が着陸したのである。当時2人は世界一周飛行時間の記録に挑戦中であったが、ハバロフスクで断念し、太平洋横断無着陸飛行記録達成に目標を切り替えていた。
しかし不法入国の疑いで2人は取調を受け、航空法や要塞地法違反で罰金刑を科されたうえ、機体は押収されて格納庫入りとなっていた。なかなか日本側の飛行許可が下りず、2人は足止めされていたが、折しも8月下旬に霞ヶ浦に着いたリンドバーグ夫妻は、「ミス・ビードル号」による太平洋横断無着陸飛行の実現を訴えていた。やがて日米関係にも配慮した政府の処置もあって許可が下り、立川で整備を終えた後、同機は10月4日朝、青森県の淋代から飛び立ち太平洋無着陸横断を成功させている。やがて戦乱に至る前夜、冒険家たちが飛行機の可能性を熱狂的に追い求めていた時代のことであった。

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空に向かって』(赤川政由 2000年作) 
立川駅北口デッキ(ISETAN前 2017年5月撮影)

立川駅北口デッキには、飛行機を持った少年像、そしてその下には飛行機の主翼骨組みをデザインしたベンチ(作:塩田明仁氏)がある。
この少年が飛ばそうとしている模型飛行機は「ミス・ ビードル号」をモデルにしたとのこと(→銅板造形作家赤川政由氏のブログ記事参照)。像は「立川の歴史を刻む貴重な記憶装置」であると赤川氏は記している。

 

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参考:
ミス・ビードル、高く ゆっくりと まっすぐに 翔べ』 
  伊藤功一著 グリーンアロー出版社 2003年
なお、本書は三沢市教育委員会1981年刊行の
『高くゆっくりと真っすぐに翔べ』の改訂版。
 

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2018年5月12日 (土)

片影:立川飛行場(4)

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飛行第五戦隊之碑」と立川駐屯地「竣工記念植樹」の碑
*右端の木は日本へ返還時に米軍から贈られたハナミズキ

陸上自衛隊立川駐屯地には「飛行第五戦隊之碑」があり、「史料館」には飛五に関する資料などが展示されている。駐屯地を訪ねた折の写真を添えながら記す。

Gまず戦隊之碑について。
元飛行第五戦隊の馬場保英氏は、昭和58年5月29日、立川駐屯地で行われた碑の建立・除幕式について、次のように記している(※1)。
岸中立川市長、菱田司令のほか、多数の来賓、それにすでに頭髪の白くなった、あるいはすっかり淋しくなった、かつての隊員百名近い人々が参列し、極めて厳粛に除幕式がとりおこなわれたのである」。飛五は「古い歴史を持ち、その間、加藤隼戦闘隊など、多くの飛行部隊を生み出した母隊であり、通称『立川飛行隊』であった」。
さらに、毎年行われる部隊会に集まる人々も年々減り、このままでは飛五の存在も知られることもなく消えてしまうのではないか、という思いから記念碑建設を思い立ったとも述懐されている。
飛五が通称「立川飛行隊」といわれていたことは、飛五と立川飛行場との深い縁を示すものであり、ここに記念碑が建立された理由でもあろう。なお碑の裏面には、戦隊史、有志芳名も刻まれている。「有志芳名」をみると、飛五の歴史を刻んだ多くの人の名が記されている(もちろんご遺族の方々も)。それらの幾人かについてはいずれ触れることになるだろうが、立川飛行場は飛五に関わるすべての人たちにとって今も大切な場所となっている。

「史料館」に将校集会所(貴賓室)にあったステンドグラスの一部が展示されている。三田さんの説明によると、米軍立川基地最後に近い司令官ビョンソン中佐が「ステンドグラスだけは私が、私の責任で差し上げるから、窓枠ごとはずしてください」と、当時の自衛隊広報班長鈴野三佐に依頼したとのこと(※2)。白く見える羽根のようなものはプロペラを象ったもので、実際はもう少し左右に伸びていた。Vの字ははもちろん飛五の五である。
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参考:
※1  雑誌『丸』   昭和59年2月号 所収 
       「爆装"屠龍戦隊"ビアク奇襲行秘話」 馬場保英 
※2 『立川飛行場物語』 上巻 43~44頁  三田鶴吉

 

 

 

 

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2018年5月 9日 (水)

片影:立川飛行場(3)

今回は関東大震災時の飛五の活動についてみる。

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    サルムソン2 (乙式一型偵察機の復元機)
  関東大震災で飛五が写真撮影等に従事した機種でもある。
       (2016年撮影:旧かかみがはら航空宇宙科学博物館)

以前紹介した石塚喜秀さんの文章に、「未曽有の震災には戒厳令下に入りて空中連絡並びに宣伝の重任を果せり」という記述があったが、被災の状況偵察、写真撮影、連絡、宣伝文の撒布など、飛五は震災後「気球隊」とともに連日任務に出動し、写真撮影などでは、航空学校所沢、下志津分校)とも連携している。もちろん海軍機も飛んでいるが、ここでは飛五についてのみ震災時の活動を記す。
約一か月余りの飛五の飛行記録は、『陸軍震災資料第四』(東京都公文書館所蔵)に「気球隊」の記録とともに収められているが、論文『関東大震災と航空写真』(王 京:神奈川大学 2007年 )のなかに一覧表として丁寧に整理されているので、以下この一覧表を参考にして飛五の震災時の活動の一端をみる。

当時、飛五は近衛師団長所属であったが、震災時は戒厳司令官直轄となった。飛五が動いたのは震災翌日であった。
陸軍大臣は飛五に対して、宮中(摂政宮)
と田母沢御用邸に滞在中の天皇との連絡及びその安否確認の命令を出し、9月2日午前5時15分、乙式第246号(サルムソン)に搭乗した林少尉と大橋特務曹長(操縦者)は立川飛行場を飛び立ち、宇都宮練兵場に着陸後、宮内大臣宛文書(震災状況報告)を宇都宮第十四師団長を通じて伝達した。帰還時刻は8時15分であった。さらに一機目と連動して、宇都宮と田母沢を空から状況視察・写真撮影のためにもう一機が6時50分に離陸し、9時19分に帰還している。震災時、陸軍が震災状況を最初に報告すべきは天皇であり、なすべきはその安否確認であったことがわかる。東京南部の写真撮影、八王子付近の偵察などで2日は延べ6機が飛んでいる。
なお、通信手段が途絶しているなか、中央と地方との連絡業務も飛行機が担った。とくに震災直後の大阪との連絡では、各務ケ原飛行場を中継地として、大阪の第四師団へ糧秣(パンや米)の巡洋艦による回送命令などが送達されているし、震災を報道する新聞社の飛行機、あるいは在京社員の安否確認のため地方から飛んでくる民間機も立川飛行場を利用した。

以後撮影地域の分担等で飛五は航空学校と協働し、東京及びその周辺地域などの視察、連絡業務、写真撮影など10月1日の兵営待命まで連日活動を続けたが、
その後も事ある度に出動し、ようやく10月31日から近衛師団長隷下に復帰した。

9月から10月にかけての飛五の飛行時間は合計807時間10分であった。任務の一つは写真撮影であり、その記録は震災の状況を各方面に周知させる手段となり、今日においても重要な災害記録資料となっている。もちろん気球隊や海軍機も写真撮影などに従事していたが、航空学校(所沢、下志津分校)と連携していた飛五の活動は特筆すべきものであり、そして立川飛行場の存在感をあらためて示すものであった。

参考:
○『立川飛行場物語』 上巻 77~108頁など 三田鶴吉
○神奈川大学21世紀COEプログラム
 「人類文化研究のための非文字資料の体系化」研究成果報告書
 『環境に刻印された人間活動および災害の痕跡解読』所収論文 
        関東大震災と航空写真 王 京 2007年 →参照
○NIDS戦史研究年報第16号(2013年3月)

    軍隊における災害救援に関する研究 村上和彦 2013年

 

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2018年5月 6日 (日)

片影:立川飛行場 (2)

今回は、本部と兵舎について。

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                          絵葉書「飛行第五大隊 本部

この葉書の「本部」はまだ建設途上にあるように見える。とくに建物周辺は整備されておらず、おそらく外観がようやく出来上がったころの写真ではないかと思う。
本部のあった所は、現在はパレスホテル立川の西隣にあるマンション付近と推定される。本部の北側は格納庫であったが、最近その跡地の緑地は「GREEN SPRINGS」という仮称で、モノレールに沿って多くの施設が建設される予定になっている。

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            絵葉書「飛行第五大隊 兵舎」

この絵葉書は、大正13年当時実際に使用されていたものだった。
差出人は飛行第五大隊第二中隊所属の方であり、宛名は東京市芝区の知人(縁者?)と思われる。一銭五厘の「震災切手」が使われており、大正13年8月31日の消印がある。
文面を見ると、近況報告として、大隊の演習で秋田県に10日間、北海道札幌・旭川に1か月、盛岡の騎兵隊と6日演習をしたことなどが書かれており、実に演習ばかりの日々で何のひまもない、と忙しい軍務のことが綴られている。
この方が新兵であったためか書かれていないが、この葉書が出されたちょうど1年前には、関東大震災(大正12年9月1日)があり、戒厳令下、この立川から飛五の飛行機(サルムソン)が任務のため飛んでいる(その詳細は次回に)。

なお、震災時にこの兵舎など飛五の施設もかなり被害を受けており、その状況を調査した資料・写真を見ることができる(→「大正大震災震害及火害之研究」、及び→「土木図書館デジタルアーカイブ 写真第491~494」)。それによると、この兵舎について「倒壊ニハ至ラザルモ其ノ被害甚大ニシテ、震災後ハ殆ド使用セザルガ如シ」とある。その他、兵舎の南側にあった下士(官)集会所は「南方ニ向ヒ全ク倒壊セリ」とあり、写真を見るとその被害の大きさがわかる。しかし飛行機格納庫は殆ど被害はなかったようである。

兵舎絵葉書の宛名面を下に載せる。ただし、宛名と差し出し人の名は念のため消除してある。中央付近には、横向きに「飛行機に乗った時何となくゆかいでした」の言葉も添えられている。

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2018年5月 3日 (木)

片影:立川飛行場 (1)

立川に移った頃の飛行第五大隊の様子は、多くの図版・写真とともに三田鶴吉さんの本(以前の記事)などに詳しく記されている。また、戦後の立川飛行場は、かつて駐留していた米軍関係者によっても記録されており、その家族(特に子の世代)が、立川で過ごした生活を回想し、写真やビデオでネット上に公開している。

これからは、たまたま手に入れることができた絵葉書や公開されている写真などを参考にしながら、主に「飛五」の立川時代について、自分なりにその「片影」を記すことにする。
(飛行大隊は、連隊、戦隊へと名称が変わるため、以後「飛五」の略称を使う。)

立川飛行場は、陸軍による首都防衛の拠点であったと同時に、民間飛行場としての役割をもち、当時の立川は「空の都」ともいわれた。
飛五はこの立川で約17年間活動することになる。あらためて飛五の簡単な沿革と移駐地をメモしておく(戦歴や分散配置の詳細は省略)。
1921(大正 10)年  岐阜県各務ケ原の航空第二大隊内に
             航空第五大隊が編成される
1922( 〃 11)年 8月、航空第五大隊は飛行第五大隊に改称
            11月、飛行第五大隊が各務ケ原から立川に移る
1925( 〃 14)年 航空兵科新設  飛行第五連隊に改称
1938(昭和 13)年 飛行第五戦隊に改称
          教育部隊として各務ケ原に移る
1939( 〃 14)年  6月、柏飛行場に移る(のち松戸にも展開)
1943( 〃 18)年  7月、ジャワ島マランに進出
1944( 〃 19)年  7月、フィリピンへ移駐 9月、愛知県小牧に移駐
          10月、清洲飛行場へ移駐
                              〈~1945(昭和20)年8月〉
 
下は1941(昭和16)年7月4日に陸軍が撮影した立川飛行場である。このときすでに飛五は豊四季の「柏飛行場」へ移っていたが、建物などの配置は飛五時代とほとんど変わっていない。
写真の一部を拡大加工し、当時の各施設に名称を入れてみた。
C25c11919414
施設名について参考にした資料は、現在の陸上自衛隊立川駐屯地内にある「史料館」に『陸軍飛行第五聯隊配置図』が掲示されているので、主にその記述にしたがった。写真にある幾つかの建物は、1970年代終わりに飛行場が日本に返還されるまで使われていたものもあるが、今はもう何も残っていない。

今回は、「営門」(正門)について、その今昔を見てみたい。

Photo_3                   絵葉書:立川 飛行第五大隊 正門
             左側に見える建物は「兵舎」

「飛行第五大隊」と記されているし、木々の様子も植えたばかりのころと思われるので、施設が完成した大正年間の葉書であろう。左側に見える建物が「兵舎」であるが、その絵葉書(実際に使用されたもの)は次回見ることにする。
なお、絵葉書の門柱の上に「灯籠」が置かれている。立川駐屯地の「史料館」には、灯籠の現物が展示され、「通用門」の門柱にあったものと記されている。実は、三田さんの『立川飛行場物語』の上巻43~46頁「第11回ぜいたくな兵営」のなかに、以下の説明がある。

  表門と、今は使われていませんが裏門=通用門(商人などの出入り
  口)は、まったく同じ設計でありました。現在は、裏門だけが当時のま
  まの姿で残っています。

また、「五聯隊の頃、通用門として使われていた裏門」の説明のある写真も載っている。この記事は「昭和55年6月7日」のものなので、当時はまだ「裏門=通用門」の「門柱」も灯籠も残っていたと考えられる。この三田さんの説明から推測すると、史料館の灯籠は「裏門=通用門」のものであり、絵葉書の正門(表門)の門柱にある灯籠ではないということになる。はたしてこの「通用門」の場所はどこだったのであろうか。
Photo_3       「通用門(裏門)」の門柱の上にあった灯籠

営門(正門)のあった場所は、現在どのようになっているのだろうか。
下の写真は、曙町2丁目交差点西側にある「市制50周年記念憩いの場」公園に建てられた碑である。「立川小唄」の歌詞が刻され、「空の都」といわれた往事の立川について簡単な説明も添えられている。
Photo

正門の位置は、この公園の西「ファーレ立川東」交差点付近と推定される。かつての飛五の施設のあった場所には、モノレールが南北に走り、立川タカシマヤ、パレスホテル、中央図書館、損保ジャパン日本興亜ビル、HMVビル、映画館、病院などのビル群が並び、飛行場跡地の大半は消防、警察、自衛隊の施設、そして昭和記念公園となった。
飛行場開設から間もなく100年になろうとしている現在、もはや飛五時代の面影は何も残っていない。

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2018年4月18日 (水)

立川へ

各務ケ原飛行場、そして立川飛行場がつくられた時代背景や経緯は題材として興味深いが、それはあらためて別の記事で扱うことにする。
これからしばらくは、石塚さんたちが移ってきた当時の立川飛行場、さらにそれが現在はどうなっているのかを見てみたい。

1922(大正11)年10月30日岐阜で第二大隊との告別式が行われたあと、11月10日になって、各務ケ原で訓練を受けた石塚さんたちの飛行第五大隊が立川へ移ってきた。当初訓練を受けた78名の他に増員があって、軍属を含めると130名余りになっていたという。まだ航空兵科(1925年以降)がなかった時代であり、このときの大隊長は桜井養秀砲兵中佐である。兵の大部分は工兵であった。
飛行第五大隊が立川駅前に集結した姿を写真で見ることができる(下)。
町民は挙って歓迎し、夜には提灯行列が町を練り歩いた。町で暮らす大半の人たちにとって、部隊移駐は地元の将来の繁栄を約束する大きな出来事だと受けとめられていたのだろう。

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     立川駅前に集結した飛行第五大隊立川市HPからの転載
     (
この場に石塚喜秀さんも整列していたはずだ。)

前回引用した石塚喜秀さんの文章の続きをみる。

・・・立川の新兵舎に移れり。此地、東北に関東の曠野広け、西南に多摩の清流。相模秩父の連山を、越えて遙に芙蓉の秀麗を仰ぐ。吾等は此処に誠を磨き技を尽して諸任務を全うし、時に共に伊勢神宮に詣でては二見が浦に泳ぎ、或は成田不動に詣で、大田原に遠征しては塩原温泉に浴し、仙台に至り松島を訪ひ、或は未曽有の震災には戒厳令下に入りて空中連絡並びに宣伝の重任を果せり。今や当隊の元祖兵としての任終り、将に飛行第五大隊と袂別せんとす。
さらばさらば懐しき我隊よ!!我戦友よ!!
諸君の長き星霜中、血湧き肉躍る兵営生活を追慕するの時、このアルバムを繙かば、必ずや座臥寝食同椻の契を結びし戦友、追慕の情勃々たるものある可きを信ず。希くは諸兄、之を座右に存し、以て永く記念たらしめんことを。
大正十二年十一月武蔵野原にて   石塚喜秀
 」

はじめに立川の風土や周辺の風景を描いている。多摩の清流、秩父連山、秀麗富士、軍務の合間に訪れた伊勢の風光、成田不動、塩原温泉、あるいは仙台・松島のことを回顧している。各務ケ原のときと同様、立川に移ってからも演習は全国各地で行われたようである。当時の飛行機では航続距離が短いため、機は分解して貨車で運ぶこともあった。とりわけ在任中には、大正12年9月の関東大震災戒厳令下の活動も印象に残っていたようだ。

次回からは、立川時代の「飛五」を詳しく探る。

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