岐阜空襲

2023年8月15日 (火)

岐阜空襲のB29搭乗員

岐阜空襲のことは、毎年とくにこの時期地元のメディアを中心によく記事にされている。

今年の幾つかの記事のなかで注目したのは、6年前の2017年にこの自分のブログで記したことのあるB29搭乗員の手記について取り上げたものだった。
その記事は、8月8日の中日新聞朝刊のほかにWeb上でも見ることができる。
  〇東京新聞Web 2023年8月4日配信 無料記事 
  〇中日新聞Web    同年8月8日配信 

6年前このブログで記したのは、岐阜空襲などに従事した二人のB29搭乗員だったが、ひとりは今回の記事にもなった航法士 Rowland E. Ball氏であり、もうひとりは別のB29の機長であった Raymond B. Smisek氏 である。
 →カテゴリー「岐阜空襲」の特に(1)~(5)、坂下の空襲 参照
*上をクリックするとカテゴリー「岐阜空襲」に移動します。

ボール氏やスミセク氏のことを知ったのは8年前の2015年のことであった。そのころ岐阜空襲に参加したB29搭乗員が何か書いていないかどうかを調べるため、退役米軍人の「戦友会」のサイトを片っ端から探していたのだが、ある日 B29の航法士だったボール氏の岐阜空襲体験手記を見つけたのである(※ 39th Bomb Group )。さらに岐阜空襲に参加したスミセク機長については、その子息がサイトを作っておられ、岐阜空襲から帰還後の写真なども見ることができた(→330th Bomb Group)。

とくにボール氏のことを調べてみると、実は以前から日本でもよく知られていた人物だったのである。

たとえば、甲府空襲の体験者であった元日本航空機長の諸星廣夫氏が空襲の実相をパイロットの視点で調べるなかで、甲府空襲にも従事したボール氏と交流しておられ、そのNHK番組でボール氏はインタビューにも応じている。諸星氏の体験は甲府市の「山梨平和ミュージアム」にも展示などがあり、甲府空襲についての著作もある。
また、ボール氏をインタビューしたビデオが「国立第二次世界大戦ミュージアム」(→※The National WWII Museum New Orleans)のデジタルコレクションにあり、視聴することができる。この一時間にわたるインタビュービデオの終わりの方では、岐阜空襲時の体験も詳しく語られている(55:45~)
さらに当時偶然個人的に知った岐阜市在住のアメリカ人も、ボール氏とのあいだで日本への空襲について何度もメールで議論をしていたこともわかった。

今回の新聞記事では、ボール氏の遺族が新聞社に手記を提供(公開)したと記されているが、このブログでも取り上げたように同じ内容の彼の「岐阜空襲体験記」は上記の米軍退役軍人の戦友会サイトでずいぶん前にボール氏が記したものである(おそらく2001年にはサイトに公開されていたと思われる)。

また彼の手記は、今は記されていないが「岐阜空襲」の日本版Wikipediaにはボール氏の体験記のサイト名が参照元として一時期照会されていたようだし、英語版 Wikipedia の岐阜空襲についてのサイト(→※Bombing of Gifu in World War II)の末尾には、今現在も彼の手記は以下のような参照項目として掲載されている。
※Noteの3
   Crew 3's Account of Gifu Mission. 39th Bomb Group Association. Accessed July 13, 2007. (in Japanese)

日本を空襲したB29などのパイロット自身が、当時の体験を語ったり文字にした例は少ないと思う。ボール氏とともにこのブログで取り上げたスミセク機長は戦争によって心に傷を受け、戦後は戦時のことをほとんど話さなかったし、戦友とも会わなかったと子息は書いている。
公刊された著作物について調べたことはないが、しかし退役軍人の戦友会サイトなどにはまだそうしたB29搭乗員の体験記が幾つもあるかもしれない。

それにしてもまだ調べてみたいことがある。
ボール氏のB29がトラブルのために岐阜上空で落としきれなかった焼夷弾はどこに落とされたかである。ブログにも記した[→坂下の空襲および岐阜空襲(4)]が、日本側の記録(坂下町史など)をもとに推理すると、現在の岐阜県中津川市坂下に落とされた焼夷弾(死者2名)の可能性があるものの、確証は得られていない。
岐阜上空から帰還するB29は恵那山の北側で南下する航程をとったはずだから・・・。

そしてもうひとつ。岐阜空襲時に迎撃を行った日本機の所属部隊のことである。陸軍飛行第五戦隊機だったのだろうか・・・。


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2019年6月26日 (水)

岐阜空襲 (6)

5月半ば、父方の親族と会う機会があり、父の弟(80代後半)のひとりから、体験した岐阜空襲の様子をすこし聞くことができた。

岐阜空襲は、1945(S20)年7月9日から翌10日にかけての深夜にあった。私の祖父母、父の兄弟5人、妹2人が実家に住んでいたが、戦時中兄弟は父を含め3人が従軍し、祖母は父が中国にいたとき病死していたので、空襲のあったときは祖父、父の10代の弟2人そして幼い妹2人だけの生活であった。

実家は岐阜市の中心部にあった。話を聞いた叔父は、当時国民学校高等科2年生で13歳であった。
空襲は岐阜市の西部から東部にかけて断続的に行われた。実家は千手堂にあったから、西の鏡島方面が燃え始めたとき、一家全員危険を感じて家を出た。まだ炎の上がっていない北の方向へ逃げ、長良川堤防を目指したという。空襲による火災が最も激しくなったときは、堤防からただその光景を眺めているしかなかったのであるが、他方、叔父のような国民学校(高等科)の生徒には空襲時の「動員」が予め負わされていたという。しかし着の身着のまま逃げてきたため、服装や準備が整わず、集合場所も不明であり、消火などに参加できるような状況ではなかったらしい。
実家は消失し、戦後3年目の1948年に家の再建が成るまで、粗末なバラック生活を一家は送ることになった。
中国広東付近の部隊にいた父の兄は、その後各務原飛行場の部隊に転じていたが、中国上海付近の部隊にいた弟とともに敗戦後早々と復員してきた。だが抑留中の父がシンガポールから実家に帰り復員完結となったのは、1947年1月のことであった。

父は戦時中の体験について私には多くを語り、その記録も残してくれたが、叔父の話では復員後に戦争のことを父は実家ではほとんど話さなかったらしいし、従軍した父の兄や弟も沈黙を守っていたという。戦後間もない頃は、家も焼かれ日々の生活をどうするかで追い詰められていた家族にとって、過ぎたことを振り返る余裕などなかったのであろうか。あるいは、敗戦によって激変した社会情勢のもとでは、たとえ家族の中であろうと、戦時中の体験や兵士であった過去の自分について語ることなどできなかったのかもしれない。

*母とその弟のこともメモしておく。
岐阜空襲の日、その日が誕生日だった17歳の母は、真っ赤に染まった南の空を郡上八幡で震えながら眺めていた。そして母の弟は15歳。満蒙開拓青少年義勇軍の一員として、満洲奉天(瀋陽)の車両工場でハンマーを握っていた。その叔父もまた、戦後沈黙を守っていたという。
そうした懐かしい話をしてくれた母はこの5月、風薫るなかを旅立った。




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2017年11月 5日 (日)

坂下の空襲

Photo岐阜空襲について記した以前の記事 で、中津川の坂下に落とされた焼夷弾のことに触れた。その事実は、『坂下小史』と『坂下町史』で確認できるが、たぶん『坂下町史』の記述の元になったと思われる小冊子を最近読むことができた。『坂下の空襲 さかしたの昔話』(森保著 1989年)である。全体は約50頁で、空襲の部分は前半18頁に記されている。
冊子には、焼夷弾が落とされた当夜の様子が詳細に描かれている。筆者の森 保氏は、当時国民学校5年生であったとのこと。以前紹介した『坂下町史』の内容と一部重なるが、冊子の内容を大まかに要約しておく(以前の記事はその一部を訂正する必要があるけれども、今のところそのままにしておく)。

○空襲のあった日時
1945(昭和20)年7月9日午前零時40分頃
*岐阜空襲との関連を考えると、7月10日午前零時40分であろう。
○空襲場所
今の坂下町南部を中心とする地域に焼夷弾が落とされた。
「中外公会堂の上の山あたりから、握の神明さまの上あたりまでの間」で、民家一軒に落とされたもの以外は山や田畑であり、山に落ちたものも、緑茂る生木ばかりだったためにそのまわり十㍍以内が燃えた程度だった。ただし不発弾がいくつかあり、筆者もそれを触って遊んだ。
○人的被害
15、6発の爆弾(焼夷弾)の一部が「下外」の一軒の農家を直撃。
その吉村さん宅の2階に下宿していた山田夫妻が死亡。山田さんは、名古屋→中津川→坂下に疎開していた三菱の軍需工場(今の坂下中学校の場所)の上役だったとのこと。

山田さんの妻は家の2階で死亡し、本人は火傷を負ったまま2階から下に飛び降り、救助されたものの治療ができず、翌朝一番の貨物列車で三菱の人たちが付添い、中津川の林病院に運ばれ、9時頃に亡くなったという。1階の吉村さんは夫が出征中で、妻と一人娘が家を守っていたが、空襲時は二人とも逃げて無事だった。
最初に吉村宅の火災を発見した近所の人によると、たまたま爆撃機の編隊を見ており、そのなかの一機が青いランプをつけており、赤のランプに変わったときにサーサーという音と共に空爆があったらしい。森氏の家では、空爆時に母が自分を抱きしめていたこと、火事があったとき、父と姉がすぐ現場に行ったことを覚えているという。

以前の記事で述べたことの繰り返しになるが、坂下のこの空襲は岐阜空襲との関連性が強いと考えられる。もちろんその確たる根拠はない。それでもBall氏の回想記を何度も読み直してしまうのである。

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2017年8月27日 (日)

岐阜空襲 (5)

◎Raymond B. Smisek氏について

彼のことを知ったのは、B29搭乗員の幾つかの「戦友会」サイトを見ていたときだった。彼は愛称 City of San Francisco の機長であり、彼の機は岐阜空襲に参加した第314爆撃団129機に属する第330爆撃群31機のなかの1機であった。
この第330爆撃群に関するサイト は、Smisek機長の子息 Steve 氏がつくっておられた。またこの父子についてはMasako and Spam Musubi のサイト(とくにPart1、Epilogue)でも詳しく紹介されている。

Smisek機長が参加した飛行(いずれも1945年)は以下の各地である。なおその大半は「空襲」であるが、中には空襲の事前・事後の偵察・写真撮影任務などもあると思われる。

昼間任務
4月12日 郡山   4月24日 立川    
4月21日 鹿屋    4月29日 鹿屋 
5月14日 名古屋  5月19日 浜松
5月29日 横浜     6月7日  大阪
6月15日 大阪   6月26日 名古屋
7月24日 津
  

夜間任務
4月16日 川崎   5月17日 名古屋
6月20日 静岡    7月2日  下関
7月4日 徳島 
   7月9日  岐阜 
7月16日 平塚    7月29日 大垣
8月2日 水戸    8月14日 熊谷
   
これ以外のフライトとして、9月2日東京湾の戦艦ミズーリ号で降伏文書調印式の際、彼の機は東京湾上空での「勝利の飛行」に選ばれて参加している。兵士としての彼が優秀であった証かもしれない。ところがサイトにあった彼の写真を見ると、その表情にどことなく憂いがあり、私がこれまで抱いていた米兵の印象とはかなり趣が違っていた。このことは、子息が父親について記した次の文章からも感じることができる。


私が大人になっても、父が戦争中のことを語る時間はそれほど多くはありませんでした。戦時中のことを父に尋ねても、不機嫌そうな顔になり、その話題を逸らすためにたいていは別の質問を私にしてきました。珍しく父が答えてくれたときも、自分が戦争中にしたことについて、どんな評価も望まない、とはっきり言いました。
父は戦友仲間との接触を一切望まなかったし、自分が手を貸した破壊を光栄なことだとは思っていませんでした。そして何より私が驚いたのは、恐ろしく危険な場所へ赴く多くの作戦任務から父や搭乗員を無事帰還させた、信じられないほど優秀な爆撃機(B29)について、父が何の愛着も感じていなかったことでした。
 父は1990年の初秋に旅立ちました。癌によるものでしたが、もしかすると、癒やされることのなかった戦時中に受けた心の傷 -身体の傷よりもっと深い傷だった精神的な傷痍- によるものだったかもしれません


子息のSteve氏がこのサイトを作ったのは2002年であり、アメリカにとって衝撃的な前年の事件がきっかけだったのではないか、私はそう推測している。このサイトが作られたのは、B29の戦死者や捕虜となって裁かれた若者への慰霊、あるいは彼らが祖国のために勇敢に戦ったことへの顕彰のためであったのだろう。
その一方で、父親についての上の文章からは、父親の戦後がアメリカの多くの退役軍人とは異なっていたことも読み取ることができる。彼はもともと虫一匹も殺せない優しい性格だったとのことだが、そんな彼が戦後も抱え続けた苦悩とは何であったか、この一文が全て語っていると思う。

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2017年8月18日 (金)

岐阜空襲 (4)

◎Ball氏の岐阜空襲回想記について

➀ 岐阜空襲のB29を迎撃した日本機のこと

結論から言うと、愛知県清洲飛行場に配備されていた「陸軍飛行第五戦隊」の「五式戦」数機による迎撃だったと考えられるが、明確な資料的根拠は今のところない。第五戦隊関係者の回想記にも当夜の記録は見出せない。愛知、岐阜だけではなく、他地域の飛行場からの迎撃も考えられるが、今のところ不明である。
米軍の記録では、10~15機の戦闘機から3度の攻撃を受けたこと、照空灯の存在や対空砲火のあったことなども記されている。損失機は1機で、岐阜を離脱後に出火し、ロタ島とサイパン島の間で空中爆発しているが、乗員は脱出して全員救助されている。火が出た理由は不明である。もしこの機が失われた原因が、対空砲火や日本機の攻撃によるものでないとすれば、当夜日本機によって大きな損害を受けたのはBall氏の機だけだったかもしれない。

➁ 目標を外れて投下された焼夷弾

Ball氏の回想の中で気になったのは、岐阜市上空では投下できなかった焼夷弾がどこで落とされたかである。彼は、農家の人が「なぜこんなところに」と不思議に思っただろうと記しているが、その場所を特定することは難しい。以下ひとつの仮説として考えてみる。
彼の回想では、その場所は岐阜市から「数マイル」と書かれている。だが岐阜市上空を離れて東へ飛び続け、落下させるまで随分手こずったことが記されているため、数マイルではなかった可能性がある。時速約400㎞/hで飛行し、仮に焼夷弾を落とすまでに5~10分かかったとすると、岐阜市上空からの飛行距離は概算で35~70㎞程度であろう。
当夜、岐阜市から東の地域で焼夷弾が落とされた記録は2つ残っている。現在の中津川市の「坂下」地区である。坂下は岐阜市から直線距離で約60㎞ある。
記録は『坂下小史』と『坂下町史』の2つに記されている。ただし日時は『坂下小史』では7月6日夜12時すぎ、『坂下町史』は7月9日午前0時40分とされており、このままでは実際の岐阜空襲の日時とズレがあるが、出来事の内容は両者とも一致しており、回想した方の記憶や日時の単純な誤りとすれば、坂下の出来事は岐阜空襲との関連性が十分考えられる。もちろんBall氏のB29によるものであったかどうかは直ちに断定はできない。
実はこの焼夷弾は主に山林や畑地に5~6発落ち、1軒の民家も焼いたのである。しかもその2階に下宿していた方(夫婦2名もしくはどちらか1名)が犠牲になっている。夫は「三菱の技手」と記されてるから、当時中津川にあった関連工場に派遣されていた方ではなかろうか。
あまり知られてはいないが、記憶すべき紙碑として書き置くことにする。

※訂正・補遺
 坂下への空襲については、当夜の坂下での体験を書いた方の回想記を最近読む機会があった。そのことは本年11月5日の私の記事で紹介した。
(上述の内容を訂正すべき点もあるので、11月の記事もお読み下さい。)


次回は、岐阜空襲に参加したB29の或る機長について記す。

主な参考書
『新版 岐阜も「戦場」だった』 2015年
『坂下小史』 1991年、『坂下町史』 2005年
『List of  XX/XXI Bomber Command Tactical Mission Reports』
『21st-Bomber-Command-Tactical-Mission-Report』
『激戦の空に生きて』 伊藤藤太郎 石人社 1977年 
『東海の翼「五式戦」B29迎撃記』 伊藤藤太郎 「丸」編集部 2001年 
『戦後50周年事業 甚目寺飛行場」 甚目寺町教育委員会 1995年
 

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2017年8月14日 (月)

岐阜空襲 (3)

◎ Rowland E. Ball 氏の岐阜空襲回想記 ② (要約)

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↑ 米軍写真:岐阜市西部の空襲の様子。無数の焼夷弾が
       落下中である。昭和の初期、父が通っていた
       本荘尋常・高等小学校もこの空襲で焼失した。
        (岐阜空襲を記録する会提供写真に文字入れ加工)

(前回の続き)
(以下、[ ]内は略述部分)[爆弾倉に残ったままの爆弾を落とすために、離陸前から入れたままになっていた安全装置のスイッチを切る作業が行われ、ようやく爆弾は投下された。]

我々は標的からすでに数マイルも行き過ぎてしまった。日本の米作り農家の人は、アメリカ軍がどうしてこんな田園地帯を爆撃したのか訝っていたにちがいない(この点については次回詳述)。
我々はできるだけ急いで海上に戻る必要があった。弾痕の穴を可能な限り見つけ出して塞ぎ、異常のないことを確認した。ところが機関士のウィリーが計器の一つに触れながらコジックを呼んで言った。
「爆撃航程で燃料700ガロンくらいを使ってしまったようだ」。
彼らはこの問題を検討したが、計器の不具合だろうと結論づけた。もしそんなに燃料を消費していたら帰還することさえ無理であった。我々は椅子に深く座り、少しの間休憩することにした。

夜が明けるまで長くはかからなかった。そしてラスがウィリーに言った。
「2番エンジンから霧のようなものが見えるぞ。」
ウィリーは素速く連絡トンネルを這いつくばって後方区域に行き、外の2番エンジンを見た。
やがて前方区域に戻って来るとスイッチを入れ始めた。彼はコジックを呼んで左翼に大きな穴があり、そのタンクから燃料が漏れていると言った。その穴はエンジンの排気筒から僅か24インチぐらいのところにあり、もし一度でも火花が穴に入れば、我々はたぶん爆死することになるだろう。

ウィリーによれば、燃料が翼のタンクから全部出てしまえば、もう何も起こらないとのことだった。だがそこで火花が散り、我々を空中へ吹き飛ばしてしまう可能性がまだあるのなら、コジックは緊急脱出すべきだと考えていた。私は直ぐに自機の位置を調べ、我々がどこにいるかを知ってもらうために、モンクは基地へ打電したのである。
機体前部にいる搭乗員の脱出は、まず最初に航法士(私)が前輪部脚格納室から行うことになっている。コジックは機体の速度をゆるめ、着陸装置を下げた。私は立ち上がって前輪部の脚格納室のハッチを開け、眼下の海を見おろし、しばらく待機していた。

私は振り向いてコジックの肩を叩いて言った。
「僕らは一番近い島から400マイルのところにいるが、僕らの東側にあるその
島はとても小さい。海上8000フィートに今いるけれど、脱出後何人かがおぼれ死ぬにちがいない。着水したとき、サメがたぶん僕らの何人かを襲ってくるだろうし天候が酷ければ、救助隊員は一人用筏に乗っている者を探すのにとんでもない時間をかけることになるだろう。」

結局、あれこれ議論の末、このまま飛行機に乗っているほうがいいということになった。
約2時間半の間、このまま飛べば帰還出来ると思った。ハリーがウィリーを呼んでこの状況について話し合っていたが、ウィリーが言うには、ガソリンは帰るのに十分あるとのことだ。フライトデッキで少し会議をし、結局このまま飛んで行くのがいいということになったわけである。

やがて帰還して基地の駐機場に入ったが、自機の損傷の大きかったことは、機を見つめる地上員の表情からも分かったのである。外に全員出て左翼の弾痕の全てを確認した。左翼はひどく撃たれていた。大きな弾痕に加え、機体には30箇所の弾痕があると口々に言った。モンクと私は入念に調べるため身をかがめて弾倉の開閉扉の下に行き、例の爆発が何だったか確認しようとした。我々が見上げると前部爆弾倉の後部壁が血の付いた綿のように見えるもので覆われていた。部隊の軍備担当士官がやってき来て爆弾倉の中に頭を突っ込んで言った。
「いったい何が起きたんだ?」 

我々が爆撃中の子細を語ると、彼は機体の下を見始め、下から来た20㎜機関砲の弾丸がレーダードームを突き抜け前部爆弾倉の後部壁に達しているところを示した。
それは酸素タンクの10インチほどの側をかすめ、我々が取り除くことができず、爆発もしなかった爆弾(焼夷弾)の一つの後端を打ち抜いていた。
彼が言うには、いろんな場所にある血まみれの綿のように見えるものは、爆弾の中身だということだ。爆弾が吊り棚から落下し、取り付け線が信管から引き出されるまでは爆弾が爆発することはないとはいえ、ともかく爆発する可能性はあったとも言った。だがこの士官は、なぜ爆弾が爆発しなかったかは何も説明できなかった。
ともかく一歩間違えば、空中爆発して我々が空中に放り出されたかもしれないと思うと恐ろしくなってきたのである。

我々はあの夜に持っていた幸運の全てを使い切ったのだと思う。
そもそも最初に20㎜砲弾が左翼を打ち抜いたとき、我々は吹き飛ばされていたかもしれないし、我々の機体を打ち抜いた敵の銃弾によって、搭乗員の少なくとも一人は死んでいたかもしれない。もし爆弾倉に達した20㎜砲弾が左に10インチほどズレていたら、酸素タンクを打ち抜いて僕らを吹き飛ばしていただろうが、幸い爆弾の後端が起爆することなく飛び散ったことで、持っていた運をすべて使い果たしたのだ。

調べてみたが、今回目標の岐阜を飛んだどの機も全く敵の反撃を受けていなかったのである。我々のB29だけが攻撃の標的となっていたのだ。あのとき、同じ夜間戦闘機が2回攻撃したのか、それとも2機目の戦闘機がいたのかどうかははっきりしないが、私は2回の攻撃は同一のパイロットによるものだったと思っている。
宿舎に戻っても、我々はなかなか寝付けなかった。作戦中の出来事について語り合ったが、なぜ今まだ我々が生きているのかについては、誰ひとり説明できなかったのである。

 

 

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2017年8月13日 (日)

岐阜空襲 (2)

◎ Rowland E. Ball 氏の岐阜空襲回想記 ①(要約)

 

岐阜空襲を行ったB29は、グアムを基地とする第314爆撃団所属の129機であり、その爆撃団には4つの爆撃群が所属していた。19、29、39、330の4群である。
その第39群34機の中に Weddin Belle の愛称をもつB29があり、その航法士だったのが Rowland E. Ball氏である。彼が 39th Bomb Group (回想記は2頁分あり)の戦友会サイトに岐阜空襲の回想記を寄せていたのである。(実は最近になって、甲府空襲の体験者でもあった元日航機長諸星廣夫氏と Ball氏が以前交流していたことを知った。)
岐阜空襲はBall氏にとって何回も従事した任務の一つにすぎないが、生死を分けるような体験であったため、かなり鮮明な記憶として残ったのだろうと思う。当時の戦争末期の空襲の多くは敵の反撃も少なく、搭乗員にとって easy で milk run だったとの回想もあり、ほとんど記憶に残らないものだった。その意味で岐阜空襲の彼の回想は貴重である。長いが、その要約を2回に分けて記す。

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 作戦任務日:1945年7月9日

7月9日の任務についての打合せがあったとき、説明者から搭乗員に「岐阜に行くことになった」と言われた。搭乗員らは「岐阜? 岐阜はどんな町? 岐阜はどこにあるのか?」などの質問が出た。
搭乗員らが理解した任務の要点は次のようなものだった。
岐阜は中都市であり、そこには幾つかの製造施設がある。しかし岐阜は重要な爆撃目標のリストでは高いほうではないし、防御力も強くない。この任務は go it alone <一人でもできる(楽な)任務>だ。岐阜市には幹線鉄道(東海道線)が通っており、鉄道の北側には工場群があり、南側には労働者が居住している。任務は、工場とその労働者を分担して爆撃することである。

離陸し岐阜に向かった。
機体に異常は無く、予定通りの時間と航路で陸地に到達した。大都市や工業地帯の枢要部の大部分は海岸沿いにあることからすると、岐阜市が内陸都市であることは、むしろ珍しいことであった。内陸部は山ばかりであり、陸上をかなりの距離飛行しなければならなかった。我が機以前に離陸していた僚機はすでに岐阜市上空に到達しており、目標に近づくにつれ燃え上がる町を見ることができた。
だが驚いたのは、そこに一群の照空灯が我々を狙っていたことだ。これは予想外だった。日本の照空灯群は4つか5つのライトから成り、4つのライトは白色、5つ目のライトは白に青味がかった色をしている。白のライトは手動で操作され、青のライトはradar 操作されていた。青色ライトが標的機を発見して照準を合わせ、白ライトが手動で振り向けられて標的を固定する。実は以前に照空灯の中を飛行したことがあったが、自機が標的として照らされなかったので、今回もそんなに心配はしていなかったのである。

IP(initial point 爆撃航程開始点:岐阜空襲の場合は琵琶湖西岸船木崎)到達直前、我々に2回青色ライトが向けられて通り過ぎ、3回目にライトが我々を照らした。そのライトは我々を標的として固定し、他の照空灯も同様に自機を固定した。それは我々の注意を引きつけ、気味悪いものだった。外を窓越しに見ても何も見えない。目の前でフラッシュライトが光ったときのようであり、射手は敵機を見ることなどできなかったであろう。

IPで航路を変更し、爆撃航程に入った。いろんな理由で、とても長い爆撃航程になった。それは10分ぐらいの飛行だったと記憶している。爆撃手は爆撃照準器にしゃがみ込んで狙いを定めていた。実は、この爆撃手は本来乗るはずだったボブが喘息に罹って入院したために代わりに搭乗しており、同じ爆撃群所属の一員だった。

爆撃航程を直進し高度を保ったまま飛行していたとき、突然私は自機が銃撃されたと感じたのである。何度か撃たれた経験がないと、銃弾が飛行機に当たったときの感じはわからないものである。窓の外を見ると、左翼をかすめてまっすぐ通り抜けてゆく曳光弾が切れ目なく流れていたのである。 

そのとき夜間戦闘機1機が照空灯の光に沿って下方から姿を現し、我々を正確に撃ってきたのである。もし銃弾で我々を打ち落とせないのなら、敵のパイロットは体当たりして墜落させる覚悟だったと今も私は思っている。あまりに急接近していたので、急角度で我々のそばを通り過ぎたとき、敵の操縦士の顔が見えるほどだった。

爆撃手が「爆弾投下!」と叫んだ。このとき通信士モンク・マッカーソンは、立ち上がって前部爆弾倉へ通じる隔壁扉に行き、前部爆弾倉のライトを点灯して爆弾が全て投下され何もないことを確かめていた。ラス・フォーブズ(右射撃手)も後部爆弾倉にモンクと同様の確認をした。モンクは「前部爆弾倉」に、ラスも「後部爆弾倉」にまだ爆弾が残っていると言った。爆撃手は手を伸ばし一斉投下のスイッチを入れ直し、再び「投下」と叫んだ。しかしモンクとラスは「まだ爆弾が残っているぞ」と言った。

このとき全搭乗員がこうした出来事の一部始終に緊張を強いられていた。咄嗟に私は立ち上がり、モンクがいる前部爆弾倉に行って覗いた。そのとき目の前で大きな爆発があったのである。我々は互いの顔を見て、「えらいことになった」と言った。私はコジックを呼び、前部爆弾倉にまだ爆弾があり、そこで爆発があったことを伝えた。我々は視野が爆弾に遮られ、そこで何が起きたのか分からなかったが、銃弾が撃ち込まれる感じがしたので、その爆発は下方から敵機に撃たれたことによるものに違いないと思った。
→(次回へつづく)

*下2枚の資料
  ”Tactical Mission Report  H.Q. XXI Bomber Command” より

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 ↑ 米軍資料:7月9日の岐阜空襲における爆撃照準点○印
                   を示す写真。そこは「金神社」付近であった。
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 ↑ 米軍資料:岐阜空襲のB29の航路と当日のレーダー画面。
           赤で航路を書き加えた。琵琶湖の船木崎をIPと
           定めて爆撃航程に入った。ただし、当日の岐阜
            上空 は晴天であり、レーダー爆撃の必要はなか
                       った。

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2017年8月10日 (木)

岐阜空襲 (1)

1945(昭和20)年7月9日。
この日は72年前、岐阜市が米軍の空襲を受けた日である。
そして、1928(昭和3)年に生まれた母の誕生日でもある。

当時の母は、実家(郡上郡和良村)に近い郡上郡八幡町の「郡上蚕糸協同組合」で事務員をしていた。
17歳になった9日深夜、寮にいた母は近所の響めきに気づき外へ出た。岐阜市方面の南の空は真赤に染まっており、思わず身体が震えたという。田舎町で働く少女にも、この戦争の結末はすでに分かっていたのだろう。その頃、将来の夫になる23歳の船舶工兵は、英軍の最終的な反撃が予想される中、マレー半島ポートセッテンハムで決戦前夜の準備に追われていたが、岐阜空襲のことは知るよしもない。父の実家は市街地の中心部柳ヶ瀬のすぐ西、千手堂交差点付近にあり、焼夷弾は家を焼いたが、家族は無事であった。
後年家族で母の実家を訪れていたときの夜、縁側で涼んでいた小学生の私に母が話してくれた。
「あの夜は、まるで夕焼けのように赤い空。不気味な色やった。」
1945(昭和20)年夏、勝利を目前にした連合国軍は、すでに日本の大都市や主要軍事工場などの空襲を済ませており、このころは中小都市への空爆に目標を切り替えていた。そんななか7月9日深夜から翌10日にかけて岐阜空襲は実行された。

   Gufu

   ↑ 空襲1か月前6月の岐阜市(米軍撮影)。空襲に備えた道路
     疎開の十文字の跡が鮮明にわかる。中央の〇印が爆撃照準
     点(平均着弾点)の金町交差点付近。
    (写真は岐阜空襲を記録する会提供:文字入れ加工は筆者)

岐阜空襲のことは、書籍では『新版 岐阜も「戦場」だった』(2015年)などに詳しいし、その体験談もネット上で読むことができるので、ここでは別の視点で私なりに岐阜空襲について考えたい。
私の関心のひとつは、空襲を行った米軍機(B29)の搭乗員、そして当夜迎撃任務を負った日本軍機の所属部隊のことである。とりわけB29の搭乗員たちが何か書き残していないかについては、随分以前から調べていたけれども、少なくとも書籍類のなかには見出せなかった。ところがある日、B29搭乗員の戦友会サイトのなかに岐阜空襲の回想記を見出し、さらには岐阜空襲に参加したB29の或る機長のことを知ったのである。
次回からその2人のことを記してみたい。

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