◎ Rowland E. Ball 氏の岐阜空襲回想記 ② (要約)
↑ 米軍写真:岐阜市西部の空襲の様子。無数の焼夷弾が
落下中である。昭和の初期、父が通っていた
本荘尋常・高等小学校もこの空襲で焼失した。
(岐阜空襲を記録する会提供写真に文字入れ加工)
(前回の続き)
(以下、[ ]内は略述部分)[爆弾倉に残ったままの爆弾を落とすために、離陸前から入れたままになっていた安全装置のスイッチを切る作業が行われ、ようやく爆弾は投下された。]
我々は標的からすでに数マイルも行き過ぎてしまった。日本の米作り農家の人は、アメリカ軍がどうしてこんな田園地帯を爆撃したのか訝っていたにちがいない(この点については次回詳述)。
我々はできるだけ急いで海上に戻る必要があった。弾痕の穴を可能な限り見つけ出して塞ぎ、異常のないことを確認した。ところが機関士のウィリーが計器の一つに触れながらコジックを呼んで言った。
「爆撃航程で燃料700ガロンくらいを使ってしまったようだ」。
彼らはこの問題を検討したが、計器の不具合だろうと結論づけた。もしそんなに燃料を消費していたら帰還することさえ無理であった。我々は椅子に深く座り、少しの間休憩することにした。
夜が明けるまで長くはかからなかった。そしてラスがウィリーに言った。
「2番エンジンから霧のようなものが見えるぞ。」
ウィリーは素速く連絡トンネルを這いつくばって後方区域に行き、外の2番エンジンを見た。
やがて前方区域に戻って来るとスイッチを入れ始めた。彼はコジックを呼んで左翼に大きな穴があり、そのタンクから燃料が漏れていると言った。その穴はエンジンの排気筒から僅か24インチぐらいのところにあり、もし一度でも火花が穴に入れば、我々はたぶん爆死することになるだろう。
ウィリーによれば、燃料が翼のタンクから全部出てしまえば、もう何も起こらないとのことだった。だがそこで火花が散り、我々を空中へ吹き飛ばしてしまう可能性がまだあるのなら、コジックは緊急脱出すべきだと考えていた。私は直ぐに自機の位置を調べ、我々がどこにいるかを知ってもらうために、モンクは基地へ打電したのである。
機体前部にいる搭乗員の脱出は、まず最初に航法士(私)が前輪部脚格納室から行うことになっている。コジックは機体の速度をゆるめ、着陸装置を下げた。私は立ち上がって前輪部の脚格納室のハッチを開け、眼下の海を見おろし、しばらく待機していた。
私は振り向いてコジックの肩を叩いて言った。
「僕らは一番近い島から400マイルのところにいるが、僕らの東側にあるその島はとても小さい。海上8000フィートに今いるけれど、脱出後何人かがおぼれ死ぬにちがいない。着水したとき、サメがたぶん僕らの何人かを襲ってくるだろうし、天候が酷ければ、救助隊員は一人用筏に乗っている者を探すのにとんでもない時間をかけることになるだろう。」
結局、あれこれ議論の末、このまま飛行機に乗っているほうがいいということになった。
約2時間半の間、このまま飛べば帰還出来ると思った。ハリーがウィリーを呼んでこの状況について話し合っていたが、ウィリーが言うには、ガソリンは帰るのに十分あるとのことだ。フライトデッキで少し会議をし、結局このまま飛んで行くのがいいということになったわけである。
やがて帰還して基地の駐機場に入ったが、自機の損傷の大きかったことは、機を見つめる地上員の表情からも分かったのである。外に全員出て左翼の弾痕の全てを確認した。左翼はひどく撃たれていた。大きな弾痕に加え、機体には30箇所の弾痕があると口々に言った。モンクと私は入念に調べるため身をかがめて弾倉の開閉扉の下に行き、例の爆発が何だったか確認しようとした。我々が見上げると前部爆弾倉の後部壁が血の付いた綿のように見えるもので覆われていた。部隊の軍備担当士官がやってき来て爆弾倉の中に頭を突っ込んで言った。
「いったい何が起きたんだ?」
我々が爆撃中の子細を語ると、彼は機体の下を見始め、下から来た20㎜機関砲の弾丸がレーダードームを突き抜け前部爆弾倉の後部壁に達しているところを示した。
それは酸素タンクの10インチほどの側をかすめ、我々が取り除くことができず、爆発もしなかった爆弾(焼夷弾)の一つの後端を打ち抜いていた。
彼が言うには、いろんな場所にある血まみれの綿のように見えるものは、爆弾の中身だということだ。爆弾が吊り棚から落下し、取り付け線が信管から引き出されるまでは爆弾が爆発することはないとはいえ、ともかく爆発する可能性はあったとも言った。だがこの士官は、なぜ爆弾が爆発しなかったかは何も説明できなかった。
ともかく一歩間違えば、空中爆発して我々が空中に放り出されたかもしれないと思うと恐ろしくなってきたのである。
我々はあの夜に持っていた幸運の全てを使い切ったのだと思う。
そもそも最初に20㎜砲弾が左翼を打ち抜いたとき、我々は吹き飛ばされていたかもしれないし、我々の機体を打ち抜いた敵の銃弾によって、搭乗員の少なくとも一人は死んでいたかもしれない。もし爆弾倉に達した20㎜砲弾が左に10インチほどズレていたら、酸素タンクを打ち抜いて僕らを吹き飛ばしていただろうが、幸い爆弾の後端が起爆することなく飛び散ったことで、持っていた運をすべて使い果たしたのだ。
調べてみたが、今回目標の岐阜を飛んだどの機も全く敵の反撃を受けていなかったのである。我々のB29だけが攻撃の標的となっていたのだ。あのとき、同じ夜間戦闘機が2回攻撃したのか、それとも2機目の戦闘機がいたのかどうかははっきりしないが、私は2回の攻撃は同一のパイロットによるものだったと思っている。
宿舎に戻っても、我々はなかなか寝付けなかった。作戦中の出来事について語り合ったが、なぜ今まだ我々が生きているのかについては、誰ひとり説明できなかったのである。