工兵第26連隊

2017年12月14日 (木)

工兵第26連隊 (6)

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     工兵二十六観音 愛知県田原市・蔵王山(南面)

第17次レイテ島慰霊巡拝団がレイテ島を訪れた際、ブラウエン追悼のことばとして読み上げられた追悼文の一部を最後に記しておく(「ああレイテの墓標」より)。

「かねてアルベラ附近にて米軍と激闘中であった、独立歩兵第十三聯隊第三大隊、並びに工兵第二十六聯隊は先遣部隊として米軍が不可能と信じていた脊梁山脈越えを敢行、南飛行場に突入、一時之を占領したものの後援続かず、加えて米軍イピル上陸に伴う作戰変更の為、再度の山越え転進により、その大半が散華されました事は、まことに痛恨の極みであります。
 又、この進路啓開の道路工事に従事、力尽きその儘、文字通り密林中の人柱となられた工兵第二十六聯隊戦没者のご遺骨や認識票を、脊梁山脈奥深くに数多く発見するにつけ、当時の想像を絶する進攻作戰が思い遣られ、一しお胸が痛んでなりません。
尚、かねて関係者一同待望久しかった工兵第二十六聯隊戰没者慰霊碑が、思い出の豊橋近くの渥美郡田原町蔵王山頂に、去る昭和五十五年八月十日立派に建立されました。建立時期遅延したと雖も、第二十六師団随一の規模と環境に恵まれた慰霊碑であることを、ご報告申しあげます。」 (昭和58年4月27日)
                          
「工兵第26連隊」は、父が初年兵時に北支の大同で1年ほど属していたにすぎない連隊であるが、他の部隊と同じくその連隊の最期は悲惨を極めた。他方、自らはマラッカ海峡で英軍潜水艦に攻撃され、危うく海の藻屑となっていたかもしれない体験はあったが、約6年余りの軍務から生還することができた。常々父は、自分が今も生きていることを「不思議なこと」と語るのみであった。
かつて籍を置いた連隊の一員として工兵二十六観音像完成記念式に出席した父の耳には、亡き戦友たちの呻き声や声なき声がきっと届いていたにちがいない。自らの戦後の苦悩も重ねつつ。


主に参考としたもの
○「戦史叢書」 捷号陸軍作戦(1)
    防衛庁防衛研究所戦史室 朝雲新聞社
○『「戦訓報」集成』第2巻 
    戦訓特報第40号復刻版 芙蓉書房出版
○「戦況手簿」参謀本部第2課 昭和19年11月」アジ歴より
○「レイテ戦記」 大岡昇平 中公文庫 1974年
○「レイテ島カンギポットに散華せし父を偲ぶ」 
     重松正一 2000年 非売品
○「ああレイテの墓標 泉慰霊巡拜団の記録とある遺族の思い出」 
     後藤正男 
昭和54年 非売品

 

 

 

 

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2017年12月13日 (水)

工兵第26連隊 (5)

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「レイテ島戰況圖十一月下旬」
(部分:戦訓特報 第40号より)


「工兵第26連隊」は約400名の隊員のうち、レイテ島における生存者がたった1名といわれているため、今なおその動向の全体像は不明のままである。
11月初旬、オルモックに上陸した第26師団は、輸送手段(大発など)の不足や輸送船が沈められたことなどにより、糧食や武器類が貧弱なまま戦いを強いられることになった。
上陸後の工26は、12月決行予定のブラウエン飛行場攻略作戦のため、兵器(野砲)や兵士の通る道を啓開する作業に従事していたものとみられる。そのことを示す命令書は以下のように記している。

工兵第二十六聯隊長ハ速カニ「オルモック」ー「アルブエラ」ー
「ルビ」ー「ブラウエン」道ヲ野砲道ニ啓開スルニ努ムベシ
特ニ右道路状況ヲ適時報告スベシ
無線一分隊ヲ十二日朝「イビル」ニ於テ其ノ指揮下ニ入ラシム』
(以下略)【二六師決作命甲第二號 11月12(?)日】

また、工26連隊長品川中佐からの報告といわれる、以下のメモが参本にある。

『ルビ迄野砲臂力搬送道路完成』
【戦況手簿 昭和19年11月27日の欄 参謀本部第二課】

ブラウエンへ至る道のうち、ひとまずルビまでの搬送道路が工兵によって完成したとのことであろう。道路といっても、脊梁山脈の険しい山道の隘路だったらしい。第26師団兵士は、急竣な山を登りブラウエン方面に向かうが、糧食も工具も武器も不足するなかで落伍者ばかりが増え、増援部隊の到着も遅れて作戦実行に影響した。もはや敵攻撃の態勢など十分整えられる状況にはなかったと考えられ、斬込隊が散発的に突撃を繰り返した。

大岡の『レイテ戦記』にも頻繁に紹介されている偕行社の「戦訓・レイテ戦史」とは、大本営陸軍部がまとめた「戦訓特報」第40号(昭和20年2月26日)「レイテ島ニ於ケル作戦経過ノ概要並ニ教訓」のことである。ブラウエン飛行場への攻撃について、その「戦訓特報」を見ると、大岡も引用している12月3日のこととして、工26のことが記されている。

「二八七高地前面ノ敵ハ迫撃砲に二ー三ヲ存スル一○○名内外ナルモノノ如ク、物料投下ニ依リ補給シアリ。
工兵聯隊長ノ指揮スル一小隊ハ同高地附近ヲ確保シアリ。

続いて、独歩13連隊重松大隊の主力が飛行場への斬込隊を投入する予定などが記されているが、おそらくこれが、レイテ島における工26最後の公的に確認できる戦歴かもしれない。
この1週間後には飛行場攻撃を中止し、部隊は転進し始める。その移動の最中に敵の攻撃を受け、工26は全滅したと考えられる。
なお、戦後間もないころ出された独立歩兵第13連隊第3大隊及び工兵第26連隊所属兵士の死亡報告書には、その推定される戦死年月日及場所が以下のように記されている。

 

比島「レイテ」島「ブラウエン」飛行場西方十粁
昭和十九年十二月二十二日

「工兵二六観音」の隣に建てられている「戦歴碑」では、玉砕の月日が「12月16日から22日」とあることは前回すでに記した。もとより彼らの戦死の状況は確たる記録も証言もなく、推断によるものである。アジ歴にある「11.比島方面部隊」の部隊史には、「工兵第26連隊(泉第5319部隊)」の昭和19年12月のことについて以下のように記している。

「昭和19、12
 タリサヤン転進中ルビ東方地区に降下した米軍空挺隊とブラウエン、
 ダガミ方面よりの三方向攻撃を受け激戦を展開した。
 自19、12,16
 至 〃、12,22  ブラウエン西方十粁の戦闘に於て玉砕す。」

戦後慰霊のために現地を訪れた人々も、その過酷な自然条件のため、戦場であったところには立ち入ることを諦めざるを得ず、遠くに眺めながらただ手を合わせることしか為す術はなかったという。

 

 

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2017年12月 7日 (木)

工兵第26連隊 (4)

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工兵二十六観音像の前に咲く山茶花
(愛知県田原市・蔵王山南面)

南方での戦いが熾烈を極めつつあった1942(昭和17)年12月、父の独立工兵第53大隊は上海で「船舶工兵第10連隊」へと改編され、やがて南方に派遣されることになり、海で戦う陸兵となったのである。金槌の父は、自分がまさか海を戦場とする兵士になろうとは夢にも思っていなかったであろう。1943(昭和18)年6月、父は上海・呉淞からシンガポールに着き、8月になってスマトラ島ベラワンに駐屯し、英軍と対峙していた。

他方、第26師団工兵隊となっていた部隊は、再び「工兵第26連隊」として改編され、1944(昭和19)年7月、北支の駐屯地を出発した。7月22日満支国境を通過し、8月5日釜山港を出帆することになった。行き先はフィリピンであり、連隊長は品川彌治中佐であった。
大岡昇平は『レイテ戦記』を書こうとした大きな理由について、『ダナオ湖まで』のなかで述べている。
 「『レイテ戦記』の目標の一つは、二十六師団の奮戦の実際を書くことにある。」
もともと何かと評価の低かった第26師団のレイテでの戦いぶりを、彼は米軍史料などを調べるなかで再評価すべきだと考えたからだ。
だが歩兵とは異なり、工兵の活動はどの戦記にも詳しく描かれることはない。『レイテ戦記』においても、工26の行動は数行ほど記されているだけである。ましてこの師団の生還者は極々僅かであり、工26を含む各連隊の最期の様子もいまだに大きな謎を含んだままなのである。

「工兵第26連隊戦歴碑」の最後には、次の文が刻されている。
「昭和十九年七月比島派遣を命ぜられた部隊は再び工兵第二十六連隊に改編のうえ第十四方面軍の戦闘序列に入り、同年十一月連隊主力はレイテ島オルモック(一部はセブ島)に上陸してブラウエン攻撃作戦に参加。 ブラウエン西方十粁附近の戦闘において優勢なる敵の包囲攻撃を受け勇戦敢闘。同年十二月十六日から二十二日までの間に連隊長以下壮絶なる玉砕を遂げた。」

次回は、レイテ島の戦いの僅かな記録に残る工26の足跡をみる。

 

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2017年12月 2日 (土)

工兵第26連隊 (3)

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第26師団は1938(昭和13)年から駐蒙兵団に属することになる。
その後の工兵第26連隊の大陸における戦歴は、「連隊碑」によると以下のように記されている。
「昭和19年7月までの間、大行山脈粛正、冬期反撃、第一次第二次後套進攻、中原等の各作戦を始め蒙彊地区における多くの作戦に参加」。

父の記憶によると、連隊は1941(昭和16)年夏期に「河南鄭州攻略戦」に参加していたとのことだが、父自身は残留し、大同で鉄橋警備をしていたのであった。

さて米英との戦争が始まると、連隊にも改編が行われるようになった。
1942(昭和17)年3月、一箇中隊が「独立工兵第53大隊」へ転出する。父もその要員のひとりであり、関東軍隷下となった。主な任務は渡河工兵としての役割であったが、資材などが不足し、なかなか態勢が整わなかった。そんななか、父は上官のすすめで満州国斉斉哈爾の「下士官候補者隊」へ半年間行くことになった。その間、部隊は「浙贛(セッカン)作戦」に従事していたが、またも作戦出動を父は免れることになったのである。
なおその他にも、同年11月には、工26から一箇小隊が「戦車第3師団工兵隊」に、さらに翌1943(昭和18)年3月には、一箇中隊が「独立工兵第37連隊」に編成基幹部隊として転出した。

その後、1943(昭和18)年5月、工26は「第26師団工兵隊」に改編され、主力は大同、一部は包頭、厚和に駐屯することになった。

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2017年11月30日 (木)

工兵第26連隊 (2)

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工兵第26連隊」の誕生は、1937(昭和12)年秋の満州派遣「第26師団」の編成が決定されたときであった。その背景には、日中間の戦争(支那事変)が本格的になり、大陸における日本軍の態勢を再構築する必要があったためだと考えられる。師団編成は概ね同年10月中に完結した(『第二十六師團編成詳報』等)。

「第26師団」は、当時北支に出動中の「独立混成第11旅団」を母体とし、その「改變」によって成立したものであった。独混11は、事変勃発前は熱河省承徳に駐屯していたが、事変勃発後は北平(北京)付近に進出し、さらに平緩線沿線(南口、八達嶺など)の戦闘に参加し、主要部隊は山西省「大同」へ進駐した。師団編成はその戦闘の最中に実施されたのである。
「工兵第26連隊」は大同にあった「独立工兵第11中隊」をもとに編成されたが、その独工11の母体は、東京赤羽にあった近衛工兵大隊(連隊)である。

1940(昭和15)年12月、父は豊橋の「工兵第3連隊(ここに工兵第26連隊の留守部隊があった)」に志願兵として1週間入営し、基礎的訓練を経た後、大同の「工兵第26連隊」へ入隊したのである。だが1年後、米英との戦争が始まるとともに次々に部隊改編が行われ、父をはじめ工26の要員も各地・各部隊に分散してゆくのである。

◎「第26師団」(1937年編成当時)
師団司令部(師団長 中将 後宮 淳) 
歩兵団(歩兵団司令部、独立歩兵第11連隊、
独立歩兵第12連隊、独立歩兵第13連隊)、    
第26師団捜索隊、独立野砲兵第11連隊
工兵第26連隊、師団通信隊、
輜重兵第26連隊など(一部略)






 
 

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2017年11月16日 (木)

工兵第26連隊 (1)

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1940(昭和15)年12月、18歳の父が志願兵として入隊した部隊は、大同にあった陸軍「工兵第26連隊」であった。
この連隊から他の部隊へ転じた多くの兵も激戦地に赴いたが、連隊そのものは、1944(昭和19)年12月レイテ島で全滅している。

これから数回に分けて、この工兵隊の連隊史を辿ってみたい。

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写真:2017年11月14日撮影
渥美半島・愛知県田原市の蔵王山にある通称「工兵二十六観音」と「戦歴碑」。なお観音像の左側の慰霊碑には「独立工兵第37連隊第二中隊戦記」が刻されている。独工37連隊には工26から一箇中隊も加わっていたからである。さらに像の南側には、「歩兵第百九十八連隊」の碑もある。この連隊は戦争末期に伊良湖岬~豊橋の間に展開していた。




    

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