満蒙開拓青少年義勇軍

2021年3月11日 (木)

満蒙開拓青少年義勇軍(2)

田中中隊長の日記をもとに、叔父の行動を追ってみる。

1944(S19)年 
3.13  故郷(郡上)から岐阜市へ集合(東・西本願寺別院)。
 14  岐阜の伊奈波神社で結団式。さらに県庁で知事の激励。
         凱旋道路(今の平和通り)を行進して岐阜駅へ。
 15  茨城県東茨城郡赤塚駅到着。
   内原訓練所河和田分所の「日輪宿舎」に入る。
 16  入所式。弥栄広場で加藤完治所長から訓示。
          
4.12  馬鈴薯の芽植などの農事訓練始まる。
5. 7   渡満のため河和田分所・内原駅を早朝出発。
   (午前?)8時10分名古屋駅停車。約8分家族と面会。
  8   朝、広島県西条訓練所に入所
 13  西条を発ち下関到着
 14  下関港発。ソ連の機雷流るとの情報のため警戒。
    8時間かけて釜山港着。特別列車で満洲へ向かう。
 16  奉天駅途中下車。奉天神社参拝。午後出発。
 17 ハルピン(哈爾浜)駅着。哈爾浜訓練所入所。

14歳の叔父は、郡上を発って茨木県の内原で訓練を受け、2か月後に内原から広島の西条経由で下関に向かった。途中、名古屋駅停車時に8分間家族との面会があったと記されているが、叔父が家族と会ったかどうかはわからない。5月だから農繁期かもしれないし、実家に男手は祖父しかいなかったから多分家族の見送りは無かったであろう。
満州に入り、奉天に寄ってからハルピン(哈爾浜)で再度訓練を受けたことがわかる。
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※この記事については、前回に続いてまだ2回目ではあるがいったんここで中断し、折を見て再開することにします。

                               

         

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2020年12月 8日 (火)

満蒙開拓青少年義勇軍(1)

Photo                        田中中隊之碑「拓魂碑」 (岐阜公園 2018年撮影)

〈ちょうど2年前の記事「満蒙開拓青少年義勇兵」(→★)で、母の弟が14歳のとき義勇兵として満州に派遣されたことに触れました。その記事の続きです。生前叔父からは当時のことを詳しく聞く機会はなかったのですが、母の話と資料(『岐阜県満洲開拓史』 岐阜県開拓自興会 1977年 )などをもとにして当時の足跡を辿ってみます。〉

叔父の所属していた部隊は「満蒙開拓青少年義勇軍」の「岐阜郷土 田中中隊」であり、茨城県内原の訓練所では「岐阜第44中隊」の名称がつかわれた。そもそも満州に青少年の義勇軍が送られたのはなぜか。
1932(昭和7)年の満州国建国以来、関東軍が中心となって農業移民事業を取り仕切っていたが、1937(昭和12)年、日中戦争が始まると移民計画は滞った。そこへ同年「満蒙開拓義勇軍創設」の建白書が出され、青少年を開拓団の防衛や開拓事業の推進のために送り込もうとしたのである。ただし義勇軍に関する詳細はここでは触れない。あくまで叔父の属した義勇軍についてのみメモする。

戦争末期1944(S19)年3月、14歳の叔父は和良村の小学校を出てすぐに義勇兵となったが、母の話では、志願と言うよりも学校や村の推薦というかたちをとり、ほぼ強制だったという。
茨城県の内原には訓練所が3箇所あった。叔父は「内原訓練所河和田分所」に入所した。なお29歳の田中隊長は妻を伴い、他の幹部四人のうち、33歳と31歳の二人は妻・家族も同行し、子どもは5人(4歳二人、2歳二人、1歳一人)で、他に24歳の応召者二人も加わった。一般隊員(訓練生)は14歳から17歳までの男子で、岐阜県各地から集められた227名であった。
その年齢層をみると、14歳208名、15歳8名、16歳10名、17歳1名となっており、今で言えば中学2年生ぐらいの少年が大半を占めていたことになる。
出身地は、郡上郡が42名で最も多く、恵那郡、土岐郡、加茂郡がいずれも30名を超えている。

次回、叔父の足跡について田中隊長の日誌などをもとに詳しく辿る。

 

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2018年12月 4日 (火)

黒川の佐久良太神社

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         佐久良太神社(岐阜県白川町黒川) 2018年11月撮影

この時季、よく知られた紅葉名所などを訪れたいとは全く思わない(奈良は別)。近所にも入鹿池があるし紅葉の綺麗なところは沢山あるが、むしろ行く秋の風景をただ眺めながら、ひとの少ない静かな山里でひとりぼんやりする時間がほしくなる。

11月末の連休最終日、久し振りに岐阜県の国道41号線を利用して白川町(有名な飛驒白川郷のある白川村ではない)方面へ行った。別ブログでは「飛騨川バス転落事故」と慰霊碑「天心白菊の塔」のことに触れたが、そこからさらに北上して41号を右折、白川町から東白川村と加子母村へ足を伸ばし、再び戻りながら白川町の黒川方面へも立ち寄った。どこも懐かしい場所ばかりである。
なかでも東白川村は、大学の先輩の出身地で、実は高校も同じだったことを知って互いにびっくりしたことがある。ジャズ喫茶というところに連れて行ってくれたのも彼だった。夏休みに仲間と実家へお邪魔したことがあったが、そのときの今まで見たこともない空の青さは衝撃であった。でも卒業後彼とは音信不通になってしまった。今どうしているのだろうか。
それとこの地域は、20年ほどまえに星を見たり天体写真を撮るため毎週のように通ったところだ。当時は諏訪から和田峠、八ヶ岳方面などにも遠征したが、やはり遠い。それより近い場所となると、名古屋方面の光を避けるにはどうしても黒川や東白川村、さらに加子母村あたりになる。20年ほど前は、「百武彗星」、「ヘール・ボップ彗星」、そして獅子座流星群の大出現などもあって何度も通った。自宅から1時間半以内で行ける。

この日は快晴。空の青さが格段にちがうのにあらためて感動する。夜に来たいな、と一瞬思ったが、たぶん星を見るために訪れることはもうないかもしれない。
今回、当時よく行った白川町の「大山白山神社」、加子母村の秘密の場所などを巡ったあと、帰る途中に黒川に寄った。

黒川にも寄ったのは理由がある。2週間ほど前、新聞・TVが岐阜県の満蒙開拓団のひとつ「黒川開拓団」について報じていた。黒川の「佐久良太神社」にある慰霊の「乙女の碑」に、今回あらたに「碑文」が付け加えられ、そのパネルの除幕式があったというニュースだった。すでによく知られた或る出来事にかかわることなのだが、マスコミはその「碑文」の全文を伝えてはいなかった。部分引用や要約だけで、こんなにも大事なことを自分が「わかった」などと言えるはずもない。いちど碑文を読みたいと思い、その懐かしい神社を訪れた。
いずれその黒川開拓団のことも記事にしたいが、躊躇もする。
書けないかもしれないともおもう。

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2018年11月27日 (火)

たかす開拓記念館

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前回は長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」についてふれたが、岐阜県にも同様の「たかす開拓記念館」(郡上市高鷲町大鷲)がある。開館は2年前の2016年で、こちらは公営となっている。先日ようやく訪れることができた。

この記念館は町民センターのなかにあり、戦後の「ひるがの」開拓も含めた高鷲町の郷土史も扱っている。満蒙開拓についていえば、当時の郡上郡から送出された開拓団の全体像がわかりやすく説明・展示されている。ただし限られたスペースという制約がある。当時の時代背景や国策の詳細を見学者自身がさらに調べ、考えなくてはならないだろうが、そのきっかけを得るための、とくに地元の小中学生にとっては大切な場所といえる。

展示のなかで最も目を引いたのは、「日本の土を踏めなかった人々」のパネルだった。郡上の開拓団現地死亡者すべての氏名が刻されており、ここに、これがあることに大きな意味を感じとることができる。あの「満蒙開拓団・義勇軍」とはいったい何であったかの理解は、このひとたちの名を自分の目に焼き付けることからまず始めなければと思ったのである。また、「義勇軍として大陸に渡った人々」のパネルには、当時の郡上郡から義勇兵に応じたひとの村ごとの人数が示されていた。叔父のいた「和良村」は18人とあった。

展示全体を見てあらためて感じたのは、満洲だけでなく、そもそも「開拓」ということが高鷲町の歴史と切り離せないものだったということだ。
明治末には、高鷲から北海道の下川(名寄原野)に開拓民が移っており、さらに昭和になっての満蒙開拓、そして戦後の現地高鷲ですすめられた「ひるがの」開墾など、この地域の人たちが「開拓・開墾」と深く関わってきたことを実感できる展示となっている。
現在の高鷲町を支えているのは「三白産業」(酪農・スキー場・ひるがの高原大根)といわれているが、その礎を築いてこられたひとたちの努力と苦労は、とうてい一言では語れないものがある。

次回も満蒙開拓と岐阜県との関わりを考えたい。

参考(前回の記事で示したもの以外)
郡上の満洲開拓団』(郡上市教育委員会) 2017年
語り部たちー』(高鷲町文化財保護協会)   2016年
          (制作協力岐阜県郡上市、北海道下川町)

 

 

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2018年11月 1日 (木)

満蒙開拓青少年義勇兵

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満蒙開拓平和記念館 駐車場にて
(長野県下伊那郡阿智村駒場) 2018年10月

だいぶ前のことになるが、実家を訪ねたとき母が或る本を熱心に読んでおり、『大地の風』(玉田澄子著)という題名で、母の実家と同じ郡上郡和良村(当時)出身のひとが書いたものだという。和良村など郡上の村々から旧満洲へ開拓団として渡ったひとたちのことを自身の体験をもとに描いたものだったが、借りたまま最近まで開くことなく書棚に眠り続けていた。
ところが数年前に母方の叔父が亡くなったとき、あることを思い起こした。それは、母とふたつ違いだった叔父が14歳のとき、和良村から満蒙開拓青少年義勇兵として渡満していたことだった。すぐさま玉田さんの本を読んだり開拓団について調べるようになった。当時ちょうど長野県に「満蒙開拓平和記念館」がオープンしたころでもあり、いちどそこを訪ねたいとおもっていた。

そして先日、ようやく記念館を訪ねることができた。
自宅から車なら中央道をつかって1時間余りの長野県阿智村にある。長野県から送出された開拓団員数・義勇軍隊員数は、合わせると3万7千人余りになり、全国で約27万人あった送出員数(計画含む)のうち県別では最も多い。そうした背景もあって、この記念館は2013年に民間施設として開館した。なお、自らも開拓団員であり、戦後は中国残留者の帰還問題などに尽力した山本慈昭所縁の「長岳寺」は記念館の南隣にある。
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建物はけっして大きくはないし、あれだけの大がかりな事業の歴史や教訓を後世に伝える記念館としてはまだ不十分かもしれないとおもった。しかも山間の地にあり、必ずしも交通の便が恵まれているとはいえない(ただし中央道:飯田山本ICができて便利になった)。
けれども2時間ほどいたあいだ、平日にもかかわらず団体も含めた訪問者が絶えなかったし、資料室では何人もの方が肉親・親族のことを調べておられた。民間施設であることの利を活かし、館員やボランティアの方々の姿勢や努力が多くのひとたちを引き付けているのだろう。記念館の寺沢秀文氏の書かれた文章を読み返すとその感を強くする。開拓団のことは、調べれば調べるほど多くの課題や問題を含んでいるのではないか、そんな感想をもった。
記念館のセミナー室でビデオを見た。義勇兵、開拓団員、残留孤児だったひとたちが、穏やかな顔で淡々と当時のことや戦後の歩みを語っておられたけれども、その話をほんとうに理解し受けとめるだけの力は、やはりまだ自分にはない。叔父の足跡を辿ることから、まずはじめなければとおもったのである。

追記:岐阜県の開拓団・義勇軍は、約1万2千人だった。母・叔父のいた和良村も、一家をあげて開拓団に参加したひとは多い。
叔父は、昭和19年に14歳で義勇兵となり、茨城県の内原、渡満後はハルピンで訓練を受け、長春(新京)で敗戦を迎えた。敗戦後1年ちかく留め置かれ、21年夏に帰還しているが、当時のことを叔父から直に聞く機会はなかった。それでも母は叔父の苦労を断片的にぼくに話してくれたことはあった。

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すべて2018年10月下旬撮影。

参考
『岐阜県満洲開拓史』 岐阜県開拓自興会 1977(S52)年
『満蒙開拓青少年義勇軍の旅路』 旅の文化研究所[編] 2016年
『満蒙開拓平和記念館(図録)』 改訂版 2018年
『満洲開拓民入植図』 (記念館作製)
『キメラ -満州国の肖像』 山室信一 中公新書 2004年
『大地の風 女が辿った敗戦-満洲の彷徨』 玉田澄子 ハート出版 1991年
『大地の花 私たちの〈戦争〉体験をこえて』 玉田澄子 春秋社 1999年

 

 

 

 

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