バッハを聴く(2)
秋風に箏をよこたふ戦経て 橋本多佳子 昭和25年
橋本多佳子の祖父山谷清風は山田流箏曲の検校で、彼女も幼い頃から箏を習っていたそうです。句帳には「祖父の琴今はなし」との前書があったと娘の美代子は記しています(※)。
子どもの頃、友人や知人の家に寄るとかなりの割合で箏を目にすることがありましたし、学校には必ず音楽室や作法室などにも置いてあった記憶がありますが、最近は一般家庭でお目にかかることは難しくなりました。
※『橋本多佳子句集』
註 橋本美代子 北九州市立文学館文庫 平成22年
今回はバッハの「シャコンヌ」(無伴奏バイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調〈 BWV1004〉の終章)。
バイオリンではなく、ここでは木村麻耶による「二十五絃箏」の演奏を聴きます。
箏は、「弾く」の原義を想起すれば、チェンバロやリュートの響きを連想させます。最初に聴いたときは、この演奏・奏法に至るまでにあったであろう数々の困難ばかりがどうしても頭を過ってしまい、曲を聴く余裕さえありませんでしたが、2度3度と聴くうちにそうした雑念もなくなり、バッハの旋律に酔うことができるようになりました。
次はピアノ(ブゾーニ)によるシャコンヌ。
ロシアのポリーナ・オセチンスカヤ(1975~)の演奏。
これも最初は少し戸惑いましたが、その情熱的でダイナミックな演奏によって、ジャズの風景すら垣間見えてきます。
おしまいは、やはりギターで。ジョン・フィーリーの演奏。10代の終わり頃、セゴビアのレコードで初めてシャコンヌを聴いてからすぐ楽譜を手に入れたものの、こんなに長い曲の暗譜は無理だと分かっていながら、毎日音符を追った思い出があります。
それ以後、この曲はバッハのなかでは一番多く聴いたのではないかと思っています。
繰り返す緊張と弛緩、天と地を往還する旋律の煌めき。
恰も「信と知」を叙述する一篇の宗教詩の如く、心の裡の最も深いところを常に揺さ振ります。