2025年3月30日 (日)

バッハを聴く(2)

秋風に箏をよこたふ戦経て 橋本多佳子 昭和25年

橋本多佳子の祖父山谷清風は山田流箏曲の検校で、彼女も幼い頃から箏を習っていたそうです。句帳には「祖父の琴今はなし」との前書があったと娘の美代子は記しています(※)
子どもの頃、友人や知人の家に寄るとかなりの割合で箏を目にすることがありましたし、学校には必ず音楽室や作法室などにも置いてあった記憶がありますが、最近は一般家庭でお目にかかることは難しくなりました。
※『橋本多佳子句集』
    註 橋本美代子 北九州市立文学館文庫 平成22年


今回はバッハの「シャコンヌ」(無伴奏バイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調〈 BWV1004〉の終章)。
バイオリンではなく、ここでは木村麻耶による「二十五絃箏」の演奏を聴きます。


箏は、「弾く」の原義を想起すれば、チェンバロやリュートの響きを連想させます。最初に聴いたときは、この演奏・奏法に至るまでにあったであろう数々の困難ばかりがどうしても頭を過ってしまい、曲を聴く余裕さえありませんでしたが、2度3度と聴くうちにそうした雑念もなくなり、バッハの旋律に酔うことができるようになりました。

次はピアノ(ブゾーニ)によるシャコンヌ。
ロシアのポリーナ・オセチンスカヤ(1975~)の演奏。
これも最初は少し戸惑いましたが、その情熱的でダイナミックな演奏によって、ジャズの風景すら垣間見えてきます。



おしまいは、やはりギターで。ジョン・フィーリーの演奏。10代の終わり頃、セゴビアのレコードで初めてシャコンヌを聴いてからすぐ楽譜を手に入れたものの、こんなに長い曲の暗譜は無理だと分かっていながら、毎日音符を追った思い出があります。
それ以後、この曲はバッハのなかでは一番多く聴いたのではないかと思っています。

繰り返す緊張と弛緩、天と地を往還する旋律の煌めき。
恰も「信と知」を叙述する一篇の宗教詩の如く、心の裡の最も深いところを常に揺さ振ります。



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2025年3月21日 (金)

バッハを聴く(1)

バッハではないですが、最初に 16~17世紀に活躍した John Dowland の曲を埋め込みます。彼の曲はむかし自分の持っていたギター用の楽譜にもかなりたくさん載っていました。
楽曲は、「Now, O Now I Needs Must Part」。
歌は Les Canards Chantants 、リュートは Jacob Heringman で「7コースのルネサンス・リュート」を弾いています。
旋律は或る懐かしさを呼び起こし心を和ませ、一度聞くと忘れられなくなります。詩は「別離」がテーマの悲しみに満ちたものなのに。

このところバッハの曲を聴くことが多くなりました。よく言われるように、音楽は「バッハに始まりバッハに終わる」とか。はたして自分にとっての音楽は「何に終わる」のでしょうか。

大昔ギターを少しやっていたころ、ギター用に編曲されたリュート曲集やバッハ(J.S.Bach)の楽譜も幾つか手許にあり、それらはなぜか現代のギター曲よりとても心惹かれた記憶があります。
「この曲は、もし本来のリュートで弾いたらどんな音色なのだろう」という当時の願望は簡単には叶えられなかったけれど、時折ラジオ番組でリュート曲の演奏があると急いで録音した覚えがあります。ところがもうギターを手にすることもない今になって、リュート演奏の動画などを気軽に視聴することができる時代に・・・噫!

そこでバッハのリュート曲を。
代表曲「リュート組曲 ホ長調 BWV1006a
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番ホ長調(BWV1006)」をリュート用に編曲したものですね。

最初は聞き慣れたギターでの演奏。
自分にとってのベストは John Williamas の演奏(→★)なのですが、埋め込み制限があるようです。
そこで今注目の岡本拓也氏の演奏を聴くことにしましょう。
最近自身のチャンネルにupされたばかりだとか。
小型の「19世紀ギター」を使っているようですが、そのためか何となく先祖のリュートらしき音色が聞こえてきます。


では同じ組曲をリュートで。
Evangelina Mascardi が「13コースのバロック・リュート」で弾いています。
とくに 8:52 からの Gavotte en Rondeau は最も好きな曲なので、何度も聴いてしまいました。ギター演奏では聴き取れなかった音も、遙か遠くで微かに漂っているような気がします。

次回は「シャコンヌ」。しかもあの楽器で(゚-゚)

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2025年3月 3日 (月)

大友九波さんのこと

この記事は「海の陸兵」と重複します。

父の帰還船だった英軍病院船オックスフォードシャー号に乗船しておられた方の手記を最近拝見することができました。この船は1947年に3回宇品に寄港していたのですが、この手記を書いた方は、父と同じ第1回つまり1月19日に宇品に寄港したときの同乗者(患者)でした。

この手記は図録『古希記念 大友九波作品集』(1989年)に収められている「わが青春期 -心に残る人々-」です。
大友氏は仕事の傍ら戦後は前衛書家としても活躍され、古希記念の書作展(銀座ヤマト画廊)のとき図録を出されたのですが、その後半にご自身の回顧録を載せておられます。
1919年神奈川県生まれ。早実を卒業後中央大へ入学。昭和17年繰上げ卒業し入営。スマトラの野砲兵部隊で敗戦となっています。学生時代はいくつかの同人雑誌に小説を投稿する文学青年だったようです。

敗戦後、秋にリババレー収容所に入り、約1年後の1946年暮れに体調を崩してニースン日本人病院に入院。翌47年1月にオックスフォードシャー号に「患者」として乗船しています。抑留期間と宇品帰還までは、父と全く同じ「場所」にいたことになります。
病院船に乗った患者と付添者の割合は今もわかりませんが、500人ほどが乗船したと書いており、父の記述と一致します。さらに父も回顧していたように航海中に亡くなった患者があり、彼によると6人だとのことですが、その数は船にあった病室全体のものかどうかはわかりません。

父はあまり細かいことは書いていなかったので、大友さんの手記は私の知る父の記憶を補完してくれるものとして貴重な体験談でした。
しかし、父と同じ英軍病院船に乗り、同じ日に宇品港に着いた方のことを知る機会は、大友氏以外もうこれからはないのかもしれません。

宇品引揚援護局での検疫を終えた翌日は復員者名簿の作成を手伝い、その後復員手続ののち、1月22日の夜に宇品駅から復員列車に乗ったそうです。
なお宇品で受け取った支給物等について詳しく記しています。

〇援護局支給物:靴下 1足、パンツ1枚、服(上下1着)
        袴下 1、襦袢1、手拭 1、外套 1
〇広島県食糧営団:外食券6食、乾パン7袋、
握飯2食
〇患者宛「国立病院無料診察券」
〇俸給等(後日受領?):130円(給与)、日銀からの370円(引揚邦人持帰金引換通貨)
なお現金支給は不明。

参考
「わが青春期 -心に残る人々- 」
 『古希記念 大友九波作品集』(1989年)所収

 

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2025年2月 6日 (木)

北砂の石田波郷

石田波郷の句から幾つか。

砂町も古りぬ冬日に温められ

雪敷ける町より高し小名木川

はこべらや焦土のいろの雀ども

小名木川駅春の上潮曇るなり

この1月下旬、コロナ禍を挟んで上京。いったい何年ぶり?
市ヶ谷の防衛研究所や国会図書館、東京大空襲・戦災資料センターに行った。
防衛研究所の史料閲覧室では、父がシンガポールで最後の日々を過ごしたニースン日本人病院関連の史料を見た。もちろんネット上でも「アジ歴」のサイトから見ることはできるけれど、父の名前が記された史料だけは、直接この目で確認したかったからだ。翌日は定宿からすぐの国会図書館。父も建設に関わった「リババレー劇場」に関わる雑誌(『タピオカ』)全てに目を通すことができた。
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定宿からの風景:朝の国会議事堂、手前に国会図書館、最高裁 

最終日は江東区北砂の戦災資料センターに所用があって訪問。定宿からすぐの半蔵門駅から住吉駅まで。

その帰りに進開橋袂の句碑が目に入り、そうだ波郷だと思い、踵を返して砂町文化センターまで足を伸ばすことになった。その2階に「石田波郷記念館」がある。
展示室は小さいけれども遺品などもあり、彼の業績を短時間で辿ることができたし、
1階には図書館があって、波郷の句集などをしばらく眺めていた。彼の年譜を見ていたら現在の松山市生まれとある。去年暮れに香川や愛媛松山(子規記念館)にも行っていたので、そうだったのかとあらためて気づいたりした。

帰りに北砂、小名木川周辺を「冬日に温められ」ながら少しブラブラしたが、カメラを手に江東区内を散歩していた波郷の姿を思い浮かべ、家に帰ったら『江東歳時記』などをもういちど手にしてみようと思ったのである。

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 波郷文学碑(江東区北砂緑道公園:小名木川駅跡)20250123

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          記念碑(進開橋南詰)20250123

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2025年2月 1日 (土)

宇品引揚援護局

この記事は別ブログ「海の陸兵」と重複します。

父が復員手続をした「宇品引揚援護局」のことは、これまでにも度々記事にしてきた(※)ので、もう記すことはほとんどないのですが、以前の記事でリンク先を示したAWM(オーストラリア戦争博物館)の所蔵するこの援護局の動画が Youtube にもありましたので、下に貼ります。ところどころにオーストラリア兵が写っています。1946年夏の撮影と思われます。



約1分半ほどの短い動画に収められているのは、およそ次のような場面です。

検疫/DDT消毒→茶の提供→物品回収→診察・予防接種→艀からの下船。

このなかで女子生徒が帰還兵にお茶をもてなしているシーンがありますが、たぶん援護局での一連の手続等を終え、帰還兵が施設を出て行くところだと思います。彼らを出迎え、お茶を配った女子生徒は、『宇品引揚援護局史』によれば、広島の「比治山高等女学校(現比治山学園)」の生徒たちでした。すでに記したように、『局史』には彼女らの支援を「真(まこと)に涙ぐましいものがあった」との文言があります。

さて父を乗せた英軍病院船は1947年1月19日(日曜日)に宇品に着きました。午後3時頃だったと父は記しています。しかし曜日の関係によるのか、下船は翌20日(月曜日)だったようです。航海中や下船時の出来事(※)などは既に記事にしていますので省略します。

ところで最近になって、この1月19日に宇品に着いた父の復員船に患者として乗船していた方の手記を読む機会がありました。
父の回顧でしか知らなかった病院船のことを別の方の書かれたもので確認できたのです。
次回はその手記の内容について記事にします。

参照
※ 「海の陸兵」 Ⅷ 復員 →★

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2025年1月17日 (金)

英軍病院船オックスフォードシャー号

この記事は別ブログ「海の陸兵」と重複します。


父が約6年余り(1940~45)従軍し、マレー半島とシンガポールの抑留生活(1945~1947)を終えて日本に帰還したのは、1947年の冬1月でした。今から78年前のことになります。前回まで記事にしていた「ニースン日本人病院」などの患者送還にともなって、付添者(主に炊事係)として帰還することができたのでした。送還患者には、戦時・抑留中から精神的な病を患っていた方が多かったと父は語ってくれましたし、残念なことに航海途上で水葬になった方も何名かあったといいます。

その帰還船は、上に貼った動画の英軍病院船オックスフォードシャー号(約8,600㌧)。
船の詳細はその写真とともにすでに何度か記事にしていますが(参考※3)、この船はすでに第一次世界大戦から病院船として就航しているベテランでした(※1、※2)

2011年から父の従軍の記録を調べていたとき、何よりも嬉しかったことは父の思い出に刻まれた病院船オックスフォードシャー号の貴重な写真や動画を見いだしたことでした。
この動画は1943年の地中海(北アフリカ?)にあるどこかの港で写されており、傷病兵などの様子を見ることができます。上の動画が短編、下に貼ったのは長編になっています。上の動画でいえば最後に写っている出港時の姿がとても印象的です(2:00あたりから)。4本マストと高い煙突の貴婦人のごとき美しい船影を見ながら、父の記憶を共にできたことは大きな喜びでした。

父を乗せたこの船がシンガポールの港を出航したのは1947年1月7日でした。この日は満月だったようです。約2週間の航海ののち1月19日に広島の宇品港に着きました(上陸は20日)。カレンダーを確認すると、この19日は日曜日であったことがわかりました。奇しくも1947年1月と今年2025年の1月カレンダーと曜日が一致しています。とすれば、今日17日金曜日はいったいどのあたりを航海していたのか確認してみたくなります。おそらくですが、すでに沖縄諸島の沖合をゆっくり北上していたのではないかと勝手に想像しています。

映像には父も使ったであろうタラップ、傷病兵、軍医や看護師の姿もあります。2週間の航海で父が親しく接した主計将校や下士官はこの時も乗船していたのでしょうか。この映像は1943年に北アフリカや地中海で活動していたときのものといわれます。その後この病院船は1945年になるとイギリス太平洋艦隊に配属され、日本軍の捨て身の反抗が続くレイテ島沖、沖縄方面などで軍医療の支援を行い、翌1946年に陸軍へ移管となり、翌年にかけて極東方面等で多くの患者の搬送業務を行いました。

戦時、日本軍によって傷ついた連合国の将兵を治療・搬送していた同じ船が、戦後になって元日本軍傷病兵らを故国に搬送することになったわけですが、従軍船とはいえ、休みなく海を駆け巡る姿には何か崇高なものを感じてしまいます。
父が日本に帰還する1947年にこの病院船は3回宇品港に寄港していたことがわかっています。その第1回の宇品寄港によって父は帰還できたのです。父は、航海中に親しくなっていた主計将校と下士官(軍曹?)から、下船時に受けた或る厚意を忘れませんでしたし、この船への感謝の念を終生持ち続けていました(※3)。



参考(サイト)
※1 The British Pacific and East Indies Fleets 
    → H.M.H.S. OXFORDSHIRE
※2 Roll of Honour
    → HMHS Oxfordshire
※3 このブログ「海の陸兵」(Ⅷ 復員) の各記事

なお動画の船名は「H.M.S Oxfordshire」とありますが、
接頭辞はH.M.H.S も使われています。
H.M.H.S ・・・His/Her Majesty's Hospital Ship 
H.M.S ・・・・・His/Her Majesty's  Ship 

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2025年1月 5日 (日)

ニースン日本人病院(5)

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軍医小谷勉氏の絵に「衛材科(衛生材料科)」の建物を描いているものがある。入口・木戸に「衛材科ニ用事ナキ者 立入厳禁」の札がある。建物が樹木の間にあって、おそらく病院全体の環境も悪くはないように見える。
(2)の記事」で紹介した「院内配置図」を見ると中央付近に「一衛」の文字が見えるので、これが絵の衛材科(病院組織としての衛生材料科)のことであろう。

ところで父の話では、自分たちの作業隊は「第二衛材科」と呼ばれていたと語っていた。「院内配置図」の右上には「二衛」の文字があるので、ここが父たち作業隊員の居住区だったと思われる。
資料(※)によると、「二衛材科」と記された組織・人名表があり、その備考欄には以下の文言が記入されている。

日本軍衛生材料作業隊ハ「リババレー」作業隊ニ在リテ聯合軍ノ指揮ヲ受ケ作業中。

下は父が復員時に持ち帰った写真。1947年夏頃の「ニースン日本人病院作業隊(衛生材料作業隊)」の隊員を写したもの。
ただし念のため写真の解像度は意図的に低くしてある(父は後ろから2列目の左から3人目である)。

中断するかもしれないが、ニースン日本人病院については引き続き記事にする予定。


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    ニースン日本人病院作業隊員(第二衛生材料科 1946年夏)

※「南方第1陸軍病院戦史資料(原稿)」
 アジ歴:南方軍・第7方面軍等終戦処理関連資料12参照

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2024年12月26日 (木)

ニースン日本人病院(4)

この記事は別ブログ「海の陸兵」と重複します。

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軍医小谷勉氏の描いたものに、上掲の「埠頭風景」と題する絵がある。病院患者を日本へ送還する作業を描いた港・埠頭の風景であり、病院の車、英連邦軍担当者も含めた関係者の姿が描かれている。
この絵をもとに、父が書き記した或る出来事についてみる。

父の回想によれば、作業員は衛生材料の整理だけではなく、日本へ帰還する病院患者を港まで送る仕事もあった。閉ざされた病院内の作業だけの毎日から解放されて、院外の様子や港の景色を見る機会は作業員にとって心躍るものだったに違いない。港に寄港する船の乗組員や日本人看護師とも接触する貴重な機会だったらしい。けれども父ら抑留者の帰還の予定は全く不明であり、絶望の日々が続くばかりであった。
以前の記事でも触れたが、父の回想をもう一度記す。

ある日、病院の患者送還に立ち会った際、病院船の一人の看護婦と話をしていたら、岐阜の恵那出身であると知らされ、彼女から岐阜空襲の被害のことなどを聞くことができた。私は急いで家族宛の手紙を書いて彼女に託したのである。

小谷氏の絵は、まさに父のこうした体験をも描いているようにみえる。みえてしまうのである。
同郷岐阜県出身のひとと言葉を交わすことができて、父はずいぶん嬉しかったであろう。敗戦後、父と実家との間で連絡を取り合うことはできなかったようだが、千葉市の留守業務部から敗戦後半年余り経ってから一枚の葉書が実家に届いていた(以前の記事→★)。父の抑留先は不正確ではあったが、親族にとって父の生存を知る唯一の便りであった。

他方実家の親兄弟の安否がわからなかった父にとって、彼女から岐阜空襲の被害を聞いたときは心の動揺を抑えられなかったという。だが恵那出身の看護師に託した父の手紙の行方は結局不明のままだった。
空襲による実家の焼失や家族の無事を初めて知るのは岐阜に復員した時である。

次回も小谷氏の絵、そして父が持ち帰ったもう一枚の写真を見る。

 

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2024年12月25日 (水)

ニースン日本人病院(3)

この記事は別ブログ「海の陸兵」と重複します。

「最終残留記念帳」にある一連の絵を描いたのは軍医(最終階級大尉)の「小谷勉」氏である。その名は「最終残留者記念帳」の名簿にも記載されているので病院閉鎖まで勤務しておられたのであろう。
彼は1942年に歩兵第8連隊に入営後、43年にはシンガポールに赴任し、47年に日本へ帰還後は整形外科医として阪大、大阪市大、米国留学、大阪市大付属病院長などを経て、1976年に亡くなった。敬虔なクリスチャンであり、画家でもあった。「大阪臨床整形外
科医会会報」第25号 参照 →★

今回は病院内に建設された「演芸場」の絵と父が持っていた演芸場完成記念写真を見る。
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さらに「演芸場」建物部分を拡大したもの。

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この絵と父が持ち帰った下の写真を比較してみる。
写真最前列中央の方が犬を抱いているが、絵を見ると
広場に犬らしき動物が2匹描かれているので、写真に写っているのはひょっとして絵の犬の一匹かもしれない。
これは演芸場完成記念時の写真だと父は言っていた(1946年9月ごろ)。演芸場正面の意匠とNee-Soonの文字は、絵でもはっきり描かれていることが確認できる。
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父はこの演芸場設営に自分も携わったこと、劇に出たり患者らと一緒に歌を歌ったことなどを回想している。リババレー収容所の時と同様に、楽器類は作業隊や患者を含む病院関係者が自作したらしい。
ところでこの写真に写っている方々の詳細はよくわからない(確認作業中なので後日また記す)。たしかに父(最後列右端)が写っているので、父の所属した第二衛材科作業隊員の可能性が高いが、その他に病院関係者(文化厚生部員など)も入っているかもしれない。なお病院関係者は「記念帳」の最終職員名簿と別資料の「南方第一陸軍病院編成表(1946年8月1日現在)」()で確認できるが、実はこの「編成表」に父の名も載っている。


次回は患者送還の場面を描いた「埠頭風景」の絵を見る。

「南方第1陸軍病院戦史資料(原稿)」
アジ歴:
南方軍・第7方面軍等終戦処理関連資料12参照

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2024年12月23日 (月)

ニースン日本人病院(2)

この記事は別ブログ「海の陸兵」と重複します。

「ニースン日本人病院」について、
「最終残留記念帳」
(※1)をもとに続ける。

この日本人病院のことは以前少しだけ記事にしている(→★)が、まず敗戦後の父の動向について簡単に記しておく。

〇1945年
8月15日 マレー半島ポートセッテンハムで敗戦
9月中旬  クアラクブで武装解除
10月初旬  マレー半島南部ラヤンラヤンで自活生活開始
〇1946年
3月初旬 シンガポールのリババレー作業隊に編入
5月初旬 リババレー劇場(演芸場)完成(設営従事)
7月初旬 ニースン日本人病院作業隊に編入
9月ごろ ニースン日本人病院演芸場完成(設営従事)
〇1947年

1月7日 病院患者護送付添者として
     英軍病院船(H.M.H.S. Oxfordshire )に乗船
     シンガポール港発
1月19日(20日上陸) 広島・宇品到着・復員手続
  23日  岐阜市の自宅に帰還(復員完結)

このうち、父にとってリババレーの作業隊に送られたときが最も辛い時期だったようで、食事も不十分なまま連日の作業に疲れ、帰還の予定も全くわからず不安と絶望の日々だったらしい。ただ一方で父も含め作業員たちは、「劇場(演芸場)」を作るなどして日々の苦労を忘れ、帰還への希望を持ち続けようとした。その様子は以前の記事『リババレー演芸史 想い出は星の如くに』(栗田まさみ)で触れた(→★

父は、1946年7月シンガポール中央部Nee Soon」(※2)地区にある「ニースン日本人病院(南方第一陸軍病院の分院であった元大和分院)」の作業隊へ移ることになる。約50人ほどの作業隊で、病院が使用する薬品や衛生材料の管理・整理などを行う軽作業に従事していた。帰還までの待機所だったかもしれないと父は記している。

下は「記念帳」にあるニースン日本人病院全体の配置図。
地図下部の病院入口に15「文化厚生部」があり、院内新聞などによって敗戦後の日本の情勢などを職員や患者に伝える役割をもっていた。また文化的行事も企画していたらしい。たとえばリババレー劇場につづき、父も建設に関わった「ニースン劇場(演芸場)」がつくられ、文化厚生部のひとたちも大きな役割を果たしたと思われる。

配置図中央右に円形の小道に囲まれた10「演芸場」がある。
次回はこの演芸場について触れる。

(↓拡大可)

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参考
※1 アジ歴:南方軍・第7方面軍等終戦処理関連資料14 
「最終残留記念帳 在シンガポール・ニースン日本人病院」(→★
なおここに貼った記念帳の絵や図版は部分拡大の加工をした。

※2 Nee Soon は当時の地名であり、シンガポールの実業家「林義順」(1879~1936)の名(義順:湖州語)に由来するが、80年代以降は華語で Yishun と発音・表記している。詳細は安里陽子氏の記事参照(→★

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2024年12月10日 (火)

ニースン日本人病院(1)

(この記事は別のブログ「海の陸兵」と重複します。)

きのう久しぶりに「アジ歴」(アジア歴史資料センター)を開き、検索してみた。父が敗戦後に抑留されていたシンガポール時代のことは以前随分調べたつもりだったが、ひょっとしたらまだ知らない史・資料があるかもしれないと思ったからだ。
案の定、大切な父の「記憶」を忘れていた。父がシンガポール最後の抑留の日々を過ごした「ニースン日本人病院」。それを検索語として入力すると、これまで知らなかった資料が出てきた。

在シンガポール・ニースン日本人病院
最終残留記念帳
1947(S22)年9月22日
印刷所:病院新聞印刷所
発行所:日本人病院文化厚生部
※この資料の引用先は次回の(2)で示す。

約30頁の謄写版刷り冊子。
とくに「想ひ出の扉」として描かれた10枚の線描画を見ると、万感胸に迫るものがあった。
父が作業隊員として働いた「衛材科」の建物、父も協力して建てた「演芸場」、帰還する入院患者を父たちが護送したシンガポールの港の風景・・・等々。

実は、父が戦地から持ち帰ったものは極めて少なく、6年も軍隊にいたのに写真が4枚、それに従軍証明書、給与通報(復員時のもの)ぐらいしかない。武装解除直前に、それまで持っていた大半の私物類は焼却処分にしたからだ。だから写真や関係書類は大半が抑留中のものであった。軍隊手帳も焼き捨てたそうだ。

この病院に移る前は重労働の多かったリババレー作業隊にいたが、ここでは病院内の軽作業(衛生材料の整理・管理)が主で、実質的には帰還のための船を待つ待機所のような所だったと父は語っていた。その日本人病院の様子がわかる資料に出会えたことは意外だったし、嬉しくもあった。

次回からこの冊子の内容と父が持ち帰った2枚の写真について記そうと思う。
下は「記念帳」の表紙。
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2024年8月14日 (水)

♪Omens Of Love

夕立の匂ひに恋の予感して  脇本聡美

盛夏! 今、中高の吹奏楽はコンクールの真っ最中。
この季節の数々の自分の想い出とともにある曲は、

「オーメンズ・オブ・ラブ」 
作曲:和泉宏隆、編曲:真島俊夫(1986年)

吹奏楽に関わったことのあるひとなら忘れがたい曲のひとつでしょうし、これを演奏したいがために吹奏楽部に入部したというひとも多かったようです。
原曲は THE SQUARE(現 T-SQUARE)の 名曲 Omens of Love(作曲 和泉宏隆 1985年)なのですが、これを吹奏楽用に真島俊夫が編曲したことによって、「宝島
同様にこれまで多くのひとに愛されてきました。

真島
の追悼演奏会での演奏がありましたので埋め込みます。
演奏:川口市・アンサンブルリベルテ吹奏楽団 2016年



甲子園球場でも各校ブラバンの応援でよく聞きますね。吹奏楽の定番曲なので、例えば定期演奏会のオープニング曲に使われたりすることも
多いようです。
曲名をたいていは「恋の予感」と訳しています。けれどももっと広く深い意味が込められている曲のような気もするのです。


編曲によって原曲は一層劇的な展開を含むものとなり、しかも軽快で疾走感のあるメロディーは、何かが始まりそうな omens (兆し・予感・期待感)を抱かせ、そしてただそれだけが(!)いつまでもどこまでも続いていくのです。
この心の高まりは曲の想い出と結びついて、真夏の季節に相応しいとずっと思っていました。

けれども数日前、ほんの少しだけテンポを遅くして丁寧に旋律だけを胸の中でなぞってみたのです。するとなぜか急に別の情景へと引き込まれるようなような気がしてきたのです(次第に日が短くなっているせいか、年のせいか?)。

そこで作曲者和泉宏隆(1958-2021)自身の最晩年(2021年)のピアノ演奏を聴いてみたところ、今までイメージのなかにあった真夏ではなく晩夏の、あるいは行合の空を見上げたときのような季節感へ誘われたのです。或る懐かしさも伴って。

思い込みかもしれないけれども、Omens Of Love という曲を彼が生み出したときの曲想やその指運びをこの映像で見る思いがしてなりません。

次回は、いつになるかわからないけれど、この曲が生まれる前年(1984)に世に出た、もうひとつの「恋の予感」について触れてみたい。

 

 

 

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2024年7月15日 (月)

熊野三山(1)

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羽黒山の参道・杉並木 20231016

昨年の秋10月に『おくのほそ道』を辿る「みちのく」ひとり旅の時のこと。
山形の出羽三山(といっても足で登ったのは羽黒山のみ)へ行ったとき、麓の「いでは文化記念館」の展示で初めて知ったことがありました。それは修験道と山伏の勢力範囲のことです。

それによると三十三ケ国が「羽黒山」の支配、残り三十三ケ国のうち二十四ケ国が「熊野三山」、残り九ケ国(九州)は「英彦山(ひこさん)」が支配するとされていたのです。「羽黒山」による最西の勢力圏は、今の京都府のうち丹後と丹波、さらに滋賀県、三重県まで及んでおり、羽黒山の影響力の大きさを物語っていました。

帰ってからもそれが頭に残っていて、ひさしぶりに「熊野三山」へも行ったのが11月末のことでした。
むかしは伊勢道から南へは自動車道がまだ十分整備されていなかったのですが、今は紀勢自動車道や熊野尾鷲道路(熊野大泊まで)などのおかげで大幅に移動時間が短縮されてかなり便利になっていました。

初日朝早く出て、一気に本州最南端の潮岬(串本町)へ。
ここで思いがけず「近大マグロ丼」に出会いました。そういえば岬の東隣紀伊大島に近大の養殖場があったのでした。
その食堂のカウンター席から熊野灘・太平洋をながめながら、20年以上前に本州最西端の「犬吠埼」へ行ったことを思い出していました。
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潮岬 20231128

さて「熊野三山」。
昼には潮岬から新宮市まで北上。
まず「熊野速玉大社」なのですが、行く前に神倉山の摂社「神倉神社」を先に訪ねました。

つまり「熊野古道」の第一歩ということになります。
鳥居を前にして、いきなり参拝を絶望させる壁のような参道が待ち構えていて、これではまるでロッククライミングをしているかのような「登山」です。学生時代に行った「蓼科山」山頂近くのガレ場を思い出してしまいます。

毎日参拝するという地元の年配の方に励まされながら、急峻五百数十段をなんとか登り切り、ゴトビキ岩へ到達。
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登ればそこは絶景。新宮市内と熊野灘を一望できました。
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霊力を感じさせるゴトビキ岩。
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熊野三山に祀られている熊野権現は、この神倉山にまず降臨したという伝承があって、熊野速玉大社は、だから新宮といわれるようになったとか。

登り口近くには「神倉小学校」があって、神倉神社を訪れた宮崎駿が木造の体育館の姿にいたく感動し、その足で学校を訪問し見学をしたという話はよく知られています。
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新宮市立神倉小学校体育館 20231128

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2024年6月28日 (金)

奈良県庁屋上広場

奈良県庁の屋上が整備されてから15~6年になると思う。
若草山の山焼き、大文字送り火などの行事があると特定時間帯の入場は抽選になるが、それ以外は自由に展望できる。
市内は高い建物が制限されているので、この県庁屋上ぐらいしか眺望の良いところはない。ただし行楽期以外平日はほとんど人の姿はない。
前回見た定点観測地の大仏池の比較同様、今回は《2018年11月》と《2024年6月》の県庁屋上からの眺望を並べてみた。

「大仏殿と二月堂」
右奥が「二月堂」の屋根。二月堂からの眺望は素晴らしいのだが、逆側から見ると屋根しか見えないのが不思議。およそ五年余りのあいだに「良弁杉」の背が少し高くなっているのがわかる。
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「南大門と若草山方面」
左が「東大寺南大門」。
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さて、興福寺五重塔は120年ぶりの修繕工事中。
再び元の姿に会えるのは約7年後だとか・・・
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2024年6月18日 (火)

飛火野から大仏池へ

西国三十三所満願のお礼参り。先月は信州善光寺。
次は?ということで、今月は行き慣れた奈良。
「二月堂」にお礼参り。

早朝いつもの場所に車を置き、
高畑から「禰宜道」(今回は「下の禰宜道」)で春日さんへ。
※「禰宜道」:春日大社HP 

そのあと「飛火野」の大楠と神鹿に挨拶。
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飛火野から左手に大仏殿を遠望しながら北へ浮雲園地・春日野園地を通って二月堂まで散策。
二月堂は三十三所の番外札所のひとつになっていて、むかしからお礼参りに訪れるひとも多く、堂の裏手には西国三十三所参拝道があり各所の石仏群が並んでいます。

今回の目的が終わったので、二月堂からそのまま西へ向かい最後に大仏殿北側の「大仏池」に。
池は2014年に浚渫工事が行われ、一部樹木も整備されました。池の東側には
大好きな講堂跡がありますが、あたりは整備のため現在も工事が行われています。
大仏殿北側に正倉院があるので、修学旅行生などを時折見かける以外、池付近は鹿さんを除いて旅行者などの姿はほとんど見かけません。池の西側には新造の「奈良公園事務所」があり休憩もできます。人波、鹿波に少々疲れたときには絶好の場所。

ここは自分にとって「飛火野」とともに定点観測地みたいなところ。
何枚もある写真の中からおよそ10年前の晩秋と今回の初夏の景観を比べてみました。写真左手前の南京ハゼは根元から切られていました。

2013年11月(拡大可)
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2024年6月(拡大可)
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この時期やはり鹿の子斑

草の原何を鹿の子のはみそめし 加舎白雄

まだ母親に乳を求める子、
横になったまま草を食む仕草をしている子など
見飽きません。

〇飛火野/片岡梅林
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〇春日野園地
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2024年5月31日 (金)

安曇野市豊科近代美術館

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 豊科近代美術館(1992年開館) 長野県安曇野市豊科 2024年5月23日

「碌山美術館」の次はいつも「安曇野市豊科近代美術館」へ足が向く。
車で10分あまり。
高田博厚の作品収蔵数は日本で最も多いという。
あいにくの曇り空だったが、山々の残雪は美しく、美術館隣接のバラ園も見頃を迎えていた。
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他に高田の作品をまとまった数で鑑賞できるのは「福井市美術館」。
解説を含めその展示すべてが、故郷のひとびとの彼を慕う心に支えられていることを実感したおぼえがある。
まだ行ったことはないけれど埼玉県東松山市の「高坂彫刻プロムナード(高田博厚彫刻群)」に32体が野外展示されている。

帰宅後、彼の『分水嶺』などを読みたくなったけれど、
探し出すのにずいぶん苦労したのだった。
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美術館隣接のバラ園にて Eddies Crimson     2024年5月23日

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2024年5月27日 (月)

碌山美術館

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碌山美術館《碌山館 1958年開館》 安曇野市穂高 2024年5月23日

ときどき、急に荻原守衛(碌山)に会いたくなって車を走らせる。

《碌山館》の彫刻展示の配列は1958年開館以来同じとのこと。
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2008年に開館した《杜江館》(絵画館)の入り口には碌山の言葉。
彼が「最親友」といった片岡當(まさ)宛ての手紙の一節。

 事業の如何にあらず
 心事の高潔なり
 涙の多量なり
 以て満足す可きなり

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2024年5月 5日 (日)

月もたのまじ息吹やま

おりおりに伊吹をみては冬ごもり 芭蕉  [後乃旅集 如行撰]

そのままよ月もたのまじ息吹やま 芭蕉  [   同上   ]


この冬は西国三十三所巡りをする機会が多かった。
1月末に姫路市の二十七番書寫山圓教寺と加西市の二十六番法華山一乗寺へ行ったときは、新幹線で姫路まで行き、そこからレンタカーを使うことにした。日帰り。

朝5時台のまだ暗いなか始発電車に乗って名古屋駅へ。
下り名古屋始発は6時20分のぞみ271号だが、今回は姫路行きなのでこれも名古屋始発の6時36分ひかり351号を使う。座席は進行方向右。夜明け前の澄み切った空が広がっていた。

木曽川を渡るころ、車窓から少し後方を眺めると夜明け前の御嶽山の偉容があった。岐阜羽島駅を出て長良川を渡り、やがて揖斐川にさしかかると御嶽山と金華山・岐阜城がほんの一瞬だが並び立つ。
撮ったときはわからなかったが、よく見ると岐阜県庁、右端に墨俣一夜城(資料館)の姿もある。
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垂井町あたりでもなお御嶽山の姿は車窓にある。さすが三千㍍級。
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名古屋を出れば伊吹山が見えるはずなのだが、進行方向右側の座席からは時々しか視野に入ってこない。
やがて関ヶ原の山間を過ぎ北方向の視界が開けてくると、突然雪景色が広がり、迫力ある伊吹山の山容が車窓に広がってくる。山頂付近は朝日で次第に赤みを帯び始め、姿は刻々と変化する。だがそれはいつも東(濃尾平野側)から眺めている優美な姿ではない。巨大な岩の塊が転がっているようなゴツゴツとした威嚇的ともいえる直線的フォルム。
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芭蕉も愛した東から眺める伊吹山に月の趣などはいらない。
「そのままよ」と讃歎された麗しい姿を懐かしく思い描いていると、あっという間に車窓にはただ近江の冬景色が広がるだけだった。
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    [濃尾平野からみる冬の伊吹山 2022年1月下旬]


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2024年5月 2日 (木)

馬の尿する枕もと②

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旧有路家住宅 屋敷内の厩(馬屋):3頭分設えてある。20231017

この「封人の家」は、庄屋の屋敷として堂々たる構えと風格を備えています。上の写真は母屋の板間の囲炉裏から広い土間を挟んで見た馬屋(厩)ですが、左側にさらに2頭分の馬屋があり、家のどこにいても常に馬の様子がうかがえる間取りになっています。

さて、芭蕉らの泊まった「封人の家」はどこの誰の家だったかについては昔から諸説あったようで、とくに曾良の『随行日記』が再発見・刊行された昭和18年頃からは議論が本格化したようです。曾良が「和泉庄や、新右衛門兄也」と記録している家とはどこなのかなどをめぐり、現在の「封人の家」の他にも宿の候補地はいくつか検討されたようです。議論が落ち着かなかったのは、史料の少なさの他に、当時この地域には国境争いがあったことや芭蕉らの歩いた道の特定が簡単にはできなかった事情もあったのかもしれません。
その後この屋敷の解体復元工事が1971~73年に行われ、家の様式や建築技法が300年以上の歴史を経ていると推定され、芭蕉がこの地域を歩いた頃には既にこの家があったのではないかと考えられるようになりました。さらに屋敷内にあった古文書やわずかに残るその他の地域史料の分析などによって、この旧有路家の屋敷が芭蕉の泊まった家の可能性はかなり高まったようです。
※参照『最上町史編集資料 第11号(堺田・有路家旧蔵文書)』
    1983年  解説の17~22頁

たぶんその後も議論は続いているのでしょう。
ただ所詮ブログなのでこれ以上深くは触れません。

帰宅後あらためてこの句について解説している幾つかの資料を図書館で調べてみましたが、文字だけの解説文ばかりを見て疲れたので、何か絵や図のようなものがないかと探していると、『マンガ日本の古典 奥の細道』(矢口高雄 中公文庫)』に目がいきました。その Part4「よしなき山中に・・・」を読みながら、ハッとするような描写と記述に出会うことになったのです。

その一コマ(136頁)には、馬屋の二階で眠る使用人の姿があり、さらに興味深い解説文(134頁)もありました。一部を引用します。

「大小の差はあれ有路家は苗字を許された肝入り(庄屋)であるから、使用人(作男等)の五、六人は常時かかえていたはずである。しかも当時の庄屋と使用人の関係は厳然たる一線を画するものだった。例えば厩のある家の使用人の寝所は、ハシゴで登った厩の二階だった。そこにワラを敷き、シベ布団(綿のかわりにワラが入った布団)で眠るのが慣例だった。」

そして秋田県の農家の生まれだった矢口さんは、昭和三十年代に「厩の二階で眠る使用人たちの姿」を見たことがあるとも書かれています。

今のところ矢口さんのこうした説明を他の資料で確認することはできていませんが、ありうる話です。
旧有路家の屋敷でいえば、芭蕉たちが寝たのは、厩のある「土間」と「ござしき」を挟んで少し奥にある「なかざしき」ではないかといわれます。それでも馬の小便の音が聞こえるようなこの地域の「人馬同居」の暮らしぶりに芭蕉もおおいに感じるところがあったのだと思います。句の「枕もと」の主人公は、やはり芭蕉と考えるのが順当なのでしょうが、ひょっとすると矢口さんが描いているような厩の二階(上の写真参照)に眠っていた作男の気分になって詠んだとも考えられます。

この句は旅の悲哀や辛さだけを詠んだものというよりも、むしろ人馬同居の生活をするこの地域の風土をふまえ、すこし諧謔味も含ませながら仕立てたものでしょう。何の衒いもなく、気取らず、鄙びた地域でのありのままの体験と実景を詠んだ句のように思えますが、一方で現代人にはあまり馴染みのない古典籍などにも通じていた芭蕉のことですから、自分などにはとうていわからないもっと深い意味も含んでいるかもしれません。

どうしようかとちょっと迷ったのですが(サクラちゃんにはやはり可哀想なこと)、以前たまたま見つけた或る動画を埋め込みます。
調馬索を持つ方との会話を聞いていると、お馬さんへの親愛(≒敬愛)の情は今も昔も変わらないものだと思いました。
(なお、馬の排尿量は体重比でみるとむしろ人間より少ないとか)


※「尿」の読みのこと。
諸説あって、一般的には「しと」でしょうが、【曾良本】あるいは【芭蕉自筆とされる中尾本】などには「ハリ」のルビがふってあり、最近は「ばり」の読みが有力のようです。なお『泊船集』に「蚤虱馬のばりこく枕もと」とあるようなので、芭蕉はやはり「ばり」という読みが当初から念頭にあったのかもしれません。
でもわたくしとしましては「しと」が好みですが。

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2024年4月24日 (水)

馬の尿する枕もと①

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旧有路家住宅(『おくのほそ道』の「封人の家」といわれている)
(山形県最上郡最上町堺田)20231017


昨年秋のみちのく独り旅。
『おくのほそ道』で名の知れた所をいくつか見て回ったなかで、今も印象に残った事柄をすこしメモしておきます。

蚤虱馬の尿する枕もと 
 
この句は、中尊寺を見たあと芭蕉と曾良が仙台領の「尿前(しとまえ)の関」を越えて出羽(山形県)の尾花沢へと向かう途上、「封人の家を見かけて」宿りを求め、「よしなき山中に逗留」したときに詠んだとされています。
本州東側の太平洋と西側の日本海それぞれへ水が別れゆく分水嶺ともいうべきか、『おくのほそ道』の芭蕉の旅は中尊寺を大きな分岐点として、以後文学的に新しい局面へ入ったといわれます。地理的にも現在その封人の家から歩いてすぐの所(陸羽東線堺田駅前)に奥羽山脈の「大分水嶺」があるのです。

『ほそ道』は事実と異なる文学的創作・虚構による記述も多くあり、この句も旅のなかで作句されたものではなく後に挿入されたとする見方がありますが、それはともかく、自分がこれまでもっていたこの句の印象といえば、ふたりが鄙びた山奥の家に泊まることになり、旅の悲哀や辛さを詠んだものだろう、というようなものでしかありませんでした。
ところが建物に入って屋敷の造りを眺め、管理人の方の詳しい説明を聞き、さらに地元の「最上中学校卒業生」が書いた句の説明パネルを読んでいるうちに、これまでの句の印象が変わり始めました。
その説明パネルの一部を引用します。

 質素な中にもここに住む人々は、農作を生活の中心に懸命に生きていました。中でも芭蕉が心動かされたのが「人馬同居」の生活です。『馬の尿する枕もと』、まさにここに暮らす人々は馬をわが子のように大切に育てる。寝ている時も馬の尿が聞こえるほどそばに置いて、大事に育てていたのです。
 最上町はかつて馬の産地でした。どれほど馬が生きていくうえで大切なものだったかが伺えます。江戸の暮らしからは想像もつかない生活。「質素な中でもこのように生活していけるものだ」「このような暮らしもいいものだ」と芭蕉は詠んだのです。

地元に住んでいるひとならではのこの句に寄せる愛着を感じますし、この地域の「人馬同居」の生活を背景にした句だという説明にも納得したのです。やはり現地に来てよかったと思いました(ただしこの現存する封人の家がほんとうに芭蕉が泊まった家なのかどうかについては次回の記事に回します)。

ちなみにこの地域は、江戸時代に「小国駒」といわれる名馬の産地であり、明治になっても軍馬の購買地に指定されるなど山形県内唯一の馬産地だったそうです。ここからさらに北へ足を伸ばすと、古来馬産地としてあまりにも有名な南部藩(青森・岩手)へと連なりますし、これらの地域にある人馬同居の「曲屋」(曲り家)のことも何かの本で読んだことがありました。
さらに思い出すのは柳田國男の『遠野物語』に紹介されている「オシラサマ伝説」です。娘が馬と恋に陥り夫婦になってしまうという異類婚姻譚だったと思いますが、人間と馬が強い絆で結ばれ、家族同様に暮らす地域ならではの話だと思います。

もう少し続けます。②へ

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2024年4月 7日 (日)

いのち一ぱい

櫻ばないのち一ぱいに咲くからに 
     生命をかけてわが眺めたり
 
         岡本かの子『浴身』(大正14年)所収

薄曇り。微かに伊吹山の山容。
本堂東の山桜はすでに散りつつある。
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 犬山成田山より犬山城遠望 20240407 13:50 f/27  1/30秒  ISO-200

久しぶりに聴く。
車で遠出するとき、気合いを入れるため最初に流す。
@ketsume_officialより

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2024年4月 5日 (金)

花山天皇の出家

西国三十三所観音霊場巡礼(番外)のことなど

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 番外 華頂山「元慶寺」 京都市山科区 20240111

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 番外 東光山「花山院菩提寺」 兵庫県三田市尼寺 20240227

テレビドラマではすでに政治の表舞台(のちに「長徳の変」では再登場するだろうが)を降りた花山天皇。

その衝撃的な出家の顛末は、高校の古典の教科書に取り上げられたり落語の噺にもなっているので、むかしからその名は知られているが、むしろ退位後に巡礼・修行し、西国巡礼の再興者として名を残した人物としてひとびとに長く慕われることになった。「王座を蓮座にかえて一念を全うされた院は、やはり希にみる幸福な人間」(『西国巡礼』)と白洲正子が記していることに一応頷いてはみる。
頷くのだけれども、ほんとうのところはどうだったのだろうか。

その出家の舞台となった京都山科の「元慶寺」、晩年を暮らした播磨の「花山院菩提寺」などは今も参拝者が絶えない。どちらも花山法皇が再興した「西国三十三所観音霊場巡礼」ではあくまで「番外札所」ではあるが、むかしは三十三所巡りの途上あるいは出発地として巡礼者が足を向けた特別な霊場であったともいわれている

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 元慶寺本堂 20240111

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 花山院菩提寺[花山法皇殿]20240227

その西国巡礼地。たしかに若い頃から仕事の関係で寺社巡りはしていたものの、信心のひとかけらもない自分としてはことさら「三十三所」の寺院をとくに意識することはなかった。けれども父母が報土に赴いたころから、しぜんに選んで西国霊場へ行く機会が増えていった。それは十五、六年前ぐらいからのことで、とくに昨年夏以降は時間を見つけて霊場のある関西方面へ出向くことが多くなった。
最近これらの番外の寺を訪れたが、とくに「花山院菩提寺」から眺める景色は格別のものがあり、御詠歌にもある有馬富士、六甲山、さらに西に目を向けると微かに瀬戸内の小豆島の島影も認めることができる。
法皇を慕って京からこの地まで来たといわれる尼たちは、女人禁制の寺へ行くこともできず、「琴弾坂」といわれるようになった参道(山道)の途上で琴を弾くなどして法皇を慰めたとの伝承がある。麓の山里には出家のきっかけといわれる弘徽殿の女御・藤原忯子の五輪塔と共に11人の女官たちも眠っており、その里の名は今も「尼寺(にんじ)」といわれ
ている。
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 「花山院菩提寺」の廟所(宝篋印塔)兵庫県三田市尼寺 20240227
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 寺務所から見る有馬富士(奥は六甲山)20240227
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 麓の尼寺(にんじ)地区にある「十二妃の墓」20240227

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2024年4月 2日 (火)

一分咲き?

春ごとに花のさかりはありなめど
    あひ見むことは命なりけり
よみ人しらず『新古今和歌集』春歌下 九七

先週から犬山成田山へ通っているけれど、曇りの日が多くて伊吹山の姿もほとんど拝めないまま。しかも大半のソメイヨシノはまだ咲き始め状態(4月2日午前)。
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下の写真は午前11時ぐらいの天守の様子です。
登楼した方はご存じだと思いますが、混雑時はなかなかスリルがあります。高所恐怖症のわたくしはいつも壁にへばりついて歩いておりまして、景色を楽しむ余裕などございません。春休みとあって天気が良いとこんな状態なんですね。
お城の足下の桜は満開に近いようで、混雑覚悟で久しぶりに行ってみたくなりましたが、明日3日は雨の予報(・_・、
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写真を整理していたら、2年前の4月1日の写真(下)が出てきました。
本堂近くの薄墨桜はもう葉桜になっていたので、本堂からさらに南へ移動しての撮影でした。それにしても2年前は伊吹山の雪がこんなに残っていたのかと少々ビックリ。5月初旬信州大町あたりの景色を思い出します。
今週末もすっきりしない天気模様とか。夕景写真もきのう(4月1日)を除いて空振りが続いています。
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2024年3月18日 (月)

彼岸を前にして

くもりしが ふらで彼岸の 夕日影  其角

この時期になると、いつもの定点観測地へ。
おとといは西空を薄く雲が覆うなか、思いどおりの姿で夕日が沈む。
(20240316 17:54)
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一日おいてきょう行くと、
晴れて強風のなか、流れゆく雲の中へ急ぎ足で姿を消した。
伊吹山に夕日が沈むのも間近。
そういえば目の前の薄墨桜がすでに咲き始めとなりにけり。
(20240318 17:55)
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[撮影地]犬山成田山大聖寺本堂南(両日とも同じ位置)

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2023年12月24日 (日)

タイトルバナー(3)

タイトルバナー3回目。
これらは翌2021年のブログに載せたものの再掲。
すべてに俳句を添えてあります。

2020年に家の建て替えをしました。
最初の4枚の「空蝉」はその年の7月下旬に我が家の門塀にしがみついていたものです。家の建て替えで、以前庭だった所がほぼ駐車場になり、樹木も大部分を処分したので、きっと地下に潜っていた蝉の幼虫たちはどこから地上に出ていいのかずいぶん迷ったすえ、門塀付近にわずかに残る土の部分から這い上がってきたのではないかと思います。
脱皮できたのは、親が産んでくれた木ではなく門塀でした。
で、こうした蝉は昨年にはいなかったのですが、実は今年2023年の夏に2匹も門塀で脱皮していました。たぶん来年以降もみられると思います。

クリックして拡大してください。
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2023年12月19日 (火)

タイトルバナー (2)

タイトルバナー2回目。
これは2年前の記事と同じ。

2020~21年にかけてのもの。5~8月の日常風景です。
6番目の通称「ロボット水門」は、岐阜公園の側にありますが、その原型は昭和初期に作られたものらしく、岐阜県近代化遺産のひとつになっているようです。

クリックして拡大してください。
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2023年12月18日 (月)

タイトルバナー (1)

2年ほど前、このブログのタイトルバナーとして使った写真をいくつかまとめて載せたことがありました。
このブログは自分の撮った写真のアルバムでもあると思っているので、とくにタイトルバナーはかなり時間を割いて編集しています。けれどスマホ版では残念ながらタイトルバナーは全く無視されます。できればタブレットかPCで。

そんなわけで、これまでのタイトルバナーを数回に分けて載せておきます。次回からは2年前にまとめて載せていたものも再掲しておきます。同じような記事や写真をもう一度載せることについて、少し迷いましたがどうかご容赦を。


今回は主に2021年のブログに載せたタイトルバナーです。

2003年から07年ぐらいまで八重山諸島に何度か行きました。幾つかの所用があったからで、観光目的ではなかったのですが、それでも時間の許す限り島々を見て回りました。8月だけでなく春や秋にも訪れたことがありました。当時撮った写真が眠ったままになっていたので、タイトルバナー用に編集し保存しておくことにしました。
とくに波照間島の北側にあるニシ浜は、波の音以外全く聞こえない世界なので、心がどんどん内へ内へと深いところへ降りてゆくような不思議な時間を経験しました。2枚目は地元の方らしいのですが、海を眺める父と子の姿を今も思い出します(2006年)。5枚目は波照間島の南側、有人の島としては日本最南端の場所になります。6~7枚目は石垣島です。

できればクリックして拡大してください。
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2023年11月 3日 (金)

震災遺構大川小学校

6日かけて、この10月中旬「みちのく」ひとり旅。
自家用車を使い、往復の走行距離 1900㎞ あまり。
それにしても2ペダルMTの車は、高速道路も山坂道も愛馬のごとくよく走ってくれた。

芭蕉さんの足跡を巡りながら山形県、宮城県そして岩手県まで足を伸ばしたが、目的のひとつに震災遺構の見学もあった。
とくに市町村単位では最も多くの犠牲者を出した石巻市(死者3187人、行方不明者415人)はどうしても訪れたかった。
女川港や震災遺構門脇小学校にも立ち寄ったが、ここでは石巻市震災遺構大川小学校を訪ねた時の印象だけを記す。

学校沿革やメッセージの記されたパネルはどれも心を打つ。
爽やかな秋空のこの日、遺構のなかをたくさんの赤とんぼが飛び回り、錆びた鉄筋や説明板に羽根を休め、あたかもガイド役のように「これを見て考えて欲しい」と訪問者たちに問いかけているかのようだった。
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行方不明者捜索の際に壊された教室の腰壁部分に残る鉄筋
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訪問した日の午前、遺構にいたひとは50名ぐらいであったかと思う。誰もが静かに遺構を巡っておられた。音といえば、10名ほどのグループに「語り部」のひとがゆっくり丁寧に話す声だけだった。
校庭に立ったとき、地震発生時から50分あまり学校に待機していた児童・教職員と避難してきた住民の方たちの姿や、やがて河川津波が襲ってくる方角にある三角地帯に向かって動き出した子どもたちの後ろ姿が、しぜんに目に浮かんできたのである。
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かつて同じような職場に身を置き、地域も校種も違うけれども、そしてすでにリタイアした身ではあるが、この場に立ってまず心のなかに湧き上がってきたのは、これまでに感じたことのない「悔恨」であり「憤り」であり、そして幾つもの「疑問」だった。
疑問のうち、現場を見なければわからなかったことの大半はこの日納得したけれども、最も大きな難しい問いは、やはり現場に立ったところで答えが出るはずもなかった。
「あの時もし自分がこの場にいたら、どう判断し行動しただろうか?」

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津波は校舎2階の天井に達していたことが確認されている。
すでに12年半の年月が経過し、遺構の劣化も懸念されるなか、ボランティアなどのひとたちによる保存・維持の努力が続けられているという。
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校舎南側にある裏山と擁壁。左奥に登り口がある。
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校舎南側の、その日もそしてその後も「議論」され続けた小高い裏山の、コンクリート擁壁の上に立ち、見学を終える直前にあらためて学校と付近の全景を眺めてみた。写真奥(北側)には河川津波が遡上してきた富士川・北上川が流れている。川と学校の間、そして写真右(東側)には住宅地などのひとびとの生活の場があったが、現在はハウス栽培施設になったり更地になっている。
この大川地区で亡くなった方は418名とのこと。
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津波到達箇所は、人の立っている擁壁の下にある矢印の掲示板あたり。Rrdsc01061_20231103025401

この裏山には、襲ってくる津波からかろうじて逃げることのできた児童4名・教職員1名、その他に住民・河北総合支所職員10数名が避難した。
この児童4名のうち2名について『大川小学校事故検証報告書』は次のように記す(87頁)。

校庭からの三次避難中、児童2名は、津波を目撃して来た道を戻り、正面にあたる山の斜面を登ろうとした。うち1名は、斜面を数メートル登ったところで振り返り、水が押し寄せてくるのを見てさらに登るべく再び斜面側を向いたところで、後ろから押し倒されるように津波にのまれて気を失った状態で半分ほど土に埋まった。もう1名は、津波に巻き込まれながらも水面に出ることができ、ちょうど流されて来た冷蔵庫に舟に乗るようにして入った。冷蔵庫が波に流されて山の斜面にたどりつき、斜面に降り立ったところ、付近に半分ほど土に埋まった状態の児童がいたため、負傷していたにもかかわらず、土を掘って助け出した。助けられる側の児童も、自力で土を押しのけて起き上がった。」

当時の全校児童数は108名、欠席や保護者に引き取られた児童を除いた77~78名が校庭にいたといわれる。
この事件は学校管理下で起きたこれまでの最大の犠牲者数を出した。犠牲となった児童は死亡70名、行方不明4名(2023年7月現在)、犠牲になった教職員数は校庭にいた11名中10名とされている(小さな命の意味を考える会/大川伝承の会編集発行の冊子「小さな命の意味を考える」第2集等による)。

答えの出ないあの難しい問いは今も胸のなかにあるし、これからもあり続けるだろうと思う。けれどもここへ来てあらためて肝に銘じたことは、危険に直面したとき躊躇せず素早く命を守る行動をせよ、というあまりにも当然すぎる命題だった。

遺構をあとにしながら駐車場へ向かうとき、むかし父の取ったある行動を思い出した。
小学生のころ、夏休みに母の実家にいたとき、昼間大きな地震があり、縁側で隣に座って涼んでいた父が、揺れと同時に間髪をいれずわたしの上に覆い被さってきたときの、まったく信じられないような素早い動きのことを。

★参照した主な資料

裁判→参照・ダウンロード先
 ★平成26年(ワ)301 国家賠償等請求事件
  平成28年10月26日 仙台地方裁判所
 ★平成28年(ネ)381 国家賠償請求控訴事件
  平成30年4月26日  仙台高等裁判所 仙台地方裁判所

〇大川小学校事故検証報告書 平成26年2月
 (→参照・ダウンロード先

〇「小さな命の意味を考える」 
  第2集 宮城県石巻市立大川小学校から未来へ
  2023年8月20日第6版(→参照・ダウンロード先

〇その他(下記の遺構の展示説明等)
 ・石巻市震災遺構門脇小学校
   震災遺構(本校舎)、展示館(特別教室)
   展示館(屋内運動場)
 ・石巻市震災遺構大川小学校と大川震災伝承館

 *石巻市震災遺構HP(→参照)  

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2023年9月 5日 (火)

夏の名残の薔薇🌹

Thomas
 Graham Thomas 1983  (花フェスタ記念公園 20200702)

なんとなく秋の気配を感じ、あの曲を聴きたくなった。
The Last Rose of Summer🌹
アイルランドの歌曲だけど、日本では「庭の千草」として知られている。

原曲の詩(Thomas Moore、1779~1852)を読んでいると切なく哀しく辛い気持ちになるが、とくに詩の結びを何度も読み返していると、不思議なことに心が前向きになる力を感じてくる。美しい言葉ゆえか、メロディーによるものか、うまく言葉には表せないが。

So soon may I follow,
When friendships decay,
And from Love's shining circle
The gems drop away!
When true hearts lie withered,
And fond ones are flown,
Oh! Who would inhabit
This bleak world alone?.

注:スマホの方は横位置にしてください
歌詞付きの映像があったので埋め込む。
歌:森野美咲(ウィーン在住)→★

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2023年9月 1日 (金)

那谷寺(なたでら)

空を見上げると、すでに高層にはねばりのない秋雲が流れている。夕刻日陰に入ると、肌に当たる風にもやや秋の涼しさを感じる。

『おくのほそ道』の芭蕉が金沢に着いたのはちょうど今頃、旧暦七月十五日(陽暦八月二十九日)であった。そして金沢から小松にいたるまでに「秋の風」をテーマとして四句掲げている。その三句目、四句目。

あかあかと日はつれなくも秋の風

しをらしき名や小松吹く萩薄

その小松を訪れたあと芭蕉は山中温泉にしばらく逗留するが(ここで曽良と別れる)、請われて再び小松へ戻っている。その戻り道で「那谷寺」に立ち寄ったのである。しかし『おくのほそ道』の記述は、小松から山中温泉への途上に「那谷寺」へ参拝したことになっている。

石山の石より白し秋の風  

那谷寺の開創は8世紀であり、元は「岩屋寺」といわれた。その後「那谷寺」と呼ばれるようになった経緯と寺内の奇石について芭蕉はこう記す。

花山の法皇、三十三所の巡礼遂げさせたまひて後、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付けたまふとや。那智・谷汲の二字を分かちはべりしとぞ。奇石さまざまに、古松植ゑ並べて、萱葺きの小堂、岩の上に造り掛けて、殊勝の土地なり。

芭蕉も見た奇岩霊石は今「奇石遊仙境」と名付けられている。
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境内にある芭蕉の句碑(左:1843年建立)と翁塚(右)。
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芭蕉が「萱葺きの小堂」と記した本殿(大悲閣)。16世紀に寺は荒廃したが、本堂は1642(寛永19)年に再建され、さらに1949年に解体修理されている。本尊は十一面千手観世音菩薩で、芭蕉の説明とは異なり花山法皇の時代以前から納められている。この階段左側が奇石に接している。
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名勝の書院庭園・琉美園よりも、むしろ本堂へ続く参道沿いの杉並木と苔が今も印象に残る。暑い日ではあったが、苔の絨毯に差し込み揺れる木漏れ日と樹影の織りなす景象に、当日の参拝者で立ち止まらないひとは誰もいなかった。
できることなら季節ごとに訪れてみたいと思ったのである。
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〇写真:8月5日撮影
〇新版『おくのほそ道』潁原退蔵・尾形仂 訳注 角川ソフィア文庫

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