日露戦争と親族(結)
この記事は「海の陸兵」と重複します。
「近藤芳美歌碑」宇品波止場公園(広島市宇治区)
1998年建立・2011年12月撮影
次は曾祖父の戦歴を先の書籍から引用します。
第九師團歩兵第十九聯隊第十中隊 上等兵 明治十年生
三十七年八月八日屯営出發宇品出帆安東縣上陸義州守備
十月十九日發楚山着守備
十一月十二日懐仁方面敵情偵察ノ為メ十四日二房店子二於テ夜襲戦争
二十八日鑛山視察員援護並二懐仁附近偵察
卅八年一月二十一日敵ノ退路遮断ノ為メ寬甸縣出張馬架子戦争
四月九日武甲着十四日長岺戦争十八日武甲皈着六月二十九日大陽溝着
八月二日南山城子戦闘九日石庿子着駐屯中十二月二十七日凱旋ノ為メ出
一月四日和田岬上陸六日屯営着無事歸鄕ス
少し説明を加えながら全体を見ます。
生年:1877(明治10)年 応召時26歳
所属と階級:第9師団歩兵第19連隊第10中隊 上等兵
この第9師団は、日清戦争後に新設された師団で金沢市に司令部がありました。その管轄地域は主に北陸3県で、曾祖父のいた岐阜県も含まれていました。「屯営」地の詳細は不明ですが、たぶん金沢でしょう。
広島「宇品港」から大陸へ出発したのは1904(明治37)年8月8日。彼の弟である曾祖叔父が戦病死したのは1904(明治37)年8月末ですから、曾祖父が出兵してすぐのことだったのです。戦地でそのことを知らされた可能性はあります。
上陸地の「安東県」は当時の奉天省の一部で、現在は遼寧省の東港市にあたります。ここから北東40㎞ほどにある義州(現在は北朝鮮平安北道)の守備についたようです。
10月19日には義州からさらに北東125㎞ほどの楚山(現在は北朝鮮慈江道)へ行きます。その後は北上して主に奉天や遼陽周辺で活動し、3度ほど実戦も経験しているようです。
1905(明治38)年10月15日には、9月に調印されたポーツマス条約が発効し戦争は正式に終戦となりますが、曾祖父はまだ大陸に残っており、ようやく12月27日に凱旋のため屯営地を出発しています。
1906(明治39)年1月4日に和田岬(神戸)に帰還し、6日に金沢に戻ったと記されており、やがて故郷の郡上に帰ることができたようです。
日露戦争犠牲者の記録によれば、日本側戦死者は約8万4千人、そのうち曾祖叔父を含め戦病死は2万7千人余り、戦傷者は約14万3千人でした。ロシア側も戦死者数等はほぼ日本側と同数であったといいます。岐阜県出身者の死者は他県に比べ極めて多かったのですが、派遣先に激戦地が多かったためとみられます。
冒頭の写真は広島・宇品波止場公園(陸軍桟橋跡)にある近藤芳美の歌碑です。
陸軍桟橋とここを呼ばれて還らぬ死に
兵ら発ちにき記憶をば継げ
日露戦争時母方の曾祖父は生還し、そしてたぶん曾祖叔父もまた宇品から出帆し「還らぬ」ひとになりました。
それから39年後には南方派遣のために父もまた宇品から摩耶山丸で出発しシンガポールに赴き、40年後には母方の14歳の叔父は下関から満蒙開拓青少年義勇軍の一員として釜山経由で満州へ派遣されました。
むかし父とともに宇品の波止場公園に立ち寄った際、建碑間もない歌碑と陸軍桟橋跡をいつまでも眺めていた父の横顔を、今も忘れることはありません。
参考
※『復刻:日露大戦史岐阜県戦没者芳名録』
(中川書房 1982年)
※「日露戦争特別展」(アジア歴史資料センター)
https://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm
※「日露戦争特別展Ⅱ」(アジア歴史資料センター)
https://www.jacar.go.jp/nichiro2/index.html









