編集記:「海の陸兵」

2025年11月13日 (木)

日露戦争と親族(結)

この記事は「海の陸兵」と重複します。

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 「近藤芳美歌碑」宇品波止場公園(広島市宇治区)
                1998年建立・2011年12月撮影

次は曾祖父の戦歴を先の書籍から引用します。

第九師團歩兵第十九聯隊第十中隊 上等兵 明治十年生 
三十七年八月八日屯営出發宇品出帆安東縣上陸義州守備
十月十九日發楚山着守備

十一月十二日懐仁方面敵情偵察ノ為メ十四日二房店子二於テ夜襲戦争
二十八日鑛山視察員援護並二懐仁附近偵察
卅八年一月二十一日敵ノ退路遮断ノ為メ寬甸縣出張馬架子戦争
四月九日武甲着十四日長岺戦争十八日武甲皈着六月二十九日大陽溝着
八月二日南山城子戦闘九日石庿子着駐屯中十二月二十七日凱旋ノ為メ出
一月四日和田岬上陸六日屯営着無事歸鄕ス 

少し説明を加えながら全体を見ます。

生年:1877(明治10)年 応召時26歳
所属と階級:第9師団歩兵第19連隊第10中隊 上等兵
この第9師団は、日清戦争後に新設された師団で金沢市に司令部がありました。その管轄地域は主に北陸3県で、曾祖父のいた岐阜県も含まれていました。「屯営」地の詳細は不明ですが、たぶん金沢でしょう。

広島「宇品港」から大陸へ出発したのは1904(明治37)年8月8日。彼の弟である曾祖叔父が戦病死したのは1904(明治37)年8月末ですから、曾祖父が出兵してすぐのことだったのです。戦地でそのことを知らされた可能性はあります。
上陸地の「安東県」は当時の奉天省の一部で、現在は遼寧省の東港市にあたります。ここから北東40㎞ほどにある義州(現在は北朝鮮平安北道)の守備についたようです。
10月19日には義州からさらに北東125㎞ほどの楚山(現在は北朝鮮慈江道)へ行きます。その後は北上して主に奉天や遼陽周辺で活動し、3度ほど実戦も経験しているようです。

1905(明治38)年10月15日には、9月に調印されたポーツマス条約が発効し戦争は正式に終戦となりますが、曾祖父はまだ大陸に残っており、ようやく12月27日に凱旋のため屯営地を出発しています。
1906(明治39)年1月4日に和田岬(神戸)に帰還し、6日に金沢に戻ったと記されており、やがて故郷の郡上に帰ることができたようです。

日露戦争犠牲者の記録によれば、日本側戦死者は約8万4千人、そのうち曾祖叔父を含め戦病死は2万7千人余り、戦傷者は約14万3千人でした。ロシア側も戦死者数等はほぼ日本側と同数であったといいます。岐阜県出身者の死者は他県に比べ極めて多かったのですが、派遣先に激戦地が多かったためとみられます。

冒頭の写真は広島・宇品波止場公園(陸軍桟橋跡)にある近藤芳美の歌碑です。

陸軍桟橋とここを呼ばれて還らぬ死に 

兵ら発ちにき記憶をば継げ

日露戦争時母方の曾祖父は生還し、そしてたぶん曾祖叔父もまた宇品から出帆し「還らぬ」ひとになりました。
それから39年後には南方派遣のために父もまた宇品から摩耶山丸で出発しシンガポールに赴き、40年後には母方の14歳の叔父は下関から満蒙開拓青少年義勇軍の一員として釜山経由で満州へ派遣されました。

むかし父とともに宇品の波止場公園に立ち寄った際、建碑間もない歌碑と陸軍桟橋跡をいつまでも眺めていた父の横顔を、今も忘れることはありません。

参考
※『復刻:日露大戦史岐阜県戦没者芳名録』
                       (中川書房 1982年)
※「日露戦争特別展」(アジア歴史資料センター)
 https://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm
※「日露戦争特別展Ⅱ」(アジア歴史資料センター)
 https://www.jacar.go.jp/nichiro2/index.html

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2025年10月 6日 (月)

日露戦争と親族(2)

この記事は「海の陸兵」と重複します。


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         【曾祖叔父の碑と祖父建立の名号碑】

日露戦争で病没した曾祖叔父について、前回紹介した本には次のような記述があります。

第九師団第六補助輸卒 明治十六年生
補助輸卒トシテ応召戦地二アリテ勤務中
三十七年八月二十一日清国石門子附近二於テ
大膓加答兒二罹リ二十九日不帰ノ客トナル
功二依テ一時金二百円ヲ実兄二下賜セラル

彼は明治16(1883)年生まれですので、亡くなったのは21歳だったことになります。碑の右側に「明治37年9月10日」とあるのは、戦病死が親族に伝えられた日付もしくは建碑された日付と思われますので、8月末に亡くなって10日余りで親族は彼の死を知ったのだろうと推測します。
死因は大腸カタルであり、この碑は下賜金によって建碑されたのでしょう。
なお碑の左側に亡くなった兵站病院の場所が刻されています。

於清国盛京省賽馬集兵站病院死亡

「石門子」付近(奉天の郊外?)で病気になり、奉天(現瀋陽)から南東50㎞ほどの「賽馬林」にあった兵站病院で亡くなったということです。賽馬林ではロシア軍の部隊と小さな戦闘があった記録があります。
没した日付とその場所や病名について、簡素ではあるけれども親族に伝えられました。おそらく遺髪か遺骨の一部は戦地から実家に届いたものと思われます。

 次回(3)は、無事復員できた兄つまり私の曾祖父の戦歴を見ます。

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2025年9月27日 (土)

日露戦争と親族(1)

この記事は「海の陸兵」と重複します。
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上の写真は岐阜県郡上市の或る寺にある親族の碑です。
もともと母の実家の庭に建っていたもので、1980年代末に実家が絶えたため、菩提寺に移されたのです。
私も幼い頃から見ていたものの、この碑が日露戦争時に大陸で戦病死した曾祖叔父(曾祖父の弟)の碑であることを正確に理解したのは、小学校も高学年になってからであったように思います。

その後図書館で見た書籍(※)に彼の戦没時の記録、曾祖父の軍歴が載っていることを知りました。この本には岐阜県から日露戦争に従軍した全将兵の名と出身地や戦歴、戦没者は戦没時の具体的な状況が詳細に記されています。

写真も残っていない彼がどのようなひとであったか、今となっては尋ねる親族もいません。それでも以前この碑を洗ったときの、秋の陽で少し暖かくなった石の手触りだけは忘れることができません。
自分がこうして生きていることについて考えるとき、やはり戦争と自分との関わりはどうしても避けて通れないものなのです。アジア・太平洋戦争に従軍した父、さらには日露戦争で生還した母方の曾祖父と戦病死したその弟を思い起こすと、母をとおして曾祖父、そして父の命が自分の命として引き継がれているという自明さも、時折なぜか不思議な感慨となって湧いてくるのです。

次回(2)は日露戦争時の彼の戦没時の様子、生還した曾祖父の軍歴を見ます。

参考:
※『復刻:日露大戦史岐阜県戦没者芳名録
                          (中川書房 1982年)
なお、この書は国会図書館のデジタル資料として閲覧可。

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2025年6月 9日 (月)

「摩耶山丸」の出港

この記事は別ブログ「海の陸兵」と重複します。

今日は6月9日。
下は82年前の1943年6月9日に発せられた或る電文。

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陸軍の「摩耶山丸」を含む船団(シ第902船団2隻と護衛艦)
の伊万里湾出港を伝える電文(赤枠内)。
出典:「昭和18年6月1日~昭和18年6月30日 佐世保鎮守府戦時日誌(2)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08030345600、昭和18年6月1日~昭和18年6月30日 佐世保鎮守府戦時日誌(防衛省防衛研究所)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
父は1943(昭和18)年4月、当時駐留していた上海・呉淞から広島・宇品にある「陸軍船舶練習部」に派遣された。そのメンバーは、所属の「船舶工兵第10連隊」から士官・下士官合わせて6名であったという。当時父は21歳の伍長であった。このとき岐阜の実家に一時帰郷も許されたのである。
舟艇運用技術の習得と訓練が目的の出張だったが、訓練中に突如原隊復帰が命じられた。

同年6月7日に宇品を出た摩耶山丸は、やがて6月9日夕刻になって伊万里湾に集結していた「吉林丸」、「護衛艦第38号哨戒艇」とともに上海へ出港した。翌10日夜に上海・呉淞に着き、「関西丸」も合流した。父は下船も許されず、船は慌ただしく連隊要員と大発などの資材を満載し、その日のうちに出港し、
台湾・馬公を経てシンガポールへ向かった。

摩耶山丸は陸軍の特殊船(揚陸艦)だったが、この船について父はよく話題にした。何隻かの船に乗った父にとっても思い出深いものであり、前年末に竣工したばかりの新造船であったことも印象的だったようだ。父はしきりに「1万㌧のでっかい船だった
」と語っていた。

すでに当時は敵の潜水艦に攻撃される艦船が続出していたが、摩耶山丸はシンガポールに6月20日安着した。
以前の記事(→★)は呉淞での出来事だった。それは南方へ派遣されることを薄々知っていた多くの乗船者たちの不安や恐怖心を垣間見せてくれる。

摩耶山丸が伊万里湾を出発したときの電文に記された「摩耶山丸VXQ陸軍」の文字は、やはり私にとっては万感迫るものがあり、この電文を初めて見たときの感慨は、言葉では表すことができないものだった。
それは歴史・戦史の単なる史料ではなく、あたかも父の形見のように思えるのである。


上掲の史料をそのまま下に記す。
1943年6月9日19:45「伊万里湾集合地管理官」から受宛に発せられた無線電文。

受宛
 佐世保鎮守府司令長官
 上海根拠地隊司令官

 第一海上護衛隊参謀長
 佐世保防備戦隊司令官門司在勤海軍武官

 第三十八号哨戒艇長

令達報告等
機密第〇九一九四五番電
一、シ第九〇二船団二隻 護衛艦第三十八号哨戒艇 
  九日一六〇〇伊万里湾発 十日一九〇〇余山通過ノ予定

  速力一五節航路二神島一五四度三浬ヨリ
S六〇、S六一
  ヲ
経テ余山ニ向フ摩耶山丸VXQ陸軍、
  吉林丸XUH船客 一〇〇一名雑貨郵便物以上 上海

二、正午位置
  十日三二度一六分一二四度二一分

参照:
1『戦時輸送船団史』(駒宮真七郎 昭和62年 出版協同社)62頁の記述 
「昭和18年6月7日「宇品」―同年6月20日「昭南」安着  船団:吉林丸、摩耶山丸、関西丸の3隻 護衛艦艇名:不詳」
2 過去記事
「陸軍特殊船 摩耶山丸」2017年2月3日
「摩耶山丸 ーその1ー」2017年2月9日 
「同 ーその2ー」2月10日など

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2025年3月 3日 (月)

大友九波さんのこと

この記事は「海の陸兵」と重複します。

父の帰還船だった英軍病院船オックスフォードシャー号に乗船しておられた方の手記を最近拝見することができました。この船は1947年に3回宇品に寄港していたのですが、この手記を書いた方は、父と同じ第1回つまり1月19日に宇品に寄港したときの同乗者(患者)でした。

この手記は図録『古希記念 大友九波作品集』(1989年)に収められている「わが青春期 -心に残る人々-」です。
大友氏は仕事の傍ら戦後は前衛書家としても活躍され、古希記念の書作展(銀座ヤマト画廊)のとき図録を出されたのですが、その後半にご自身の回顧録を載せておられます。
1919年神奈川県生まれ。早実を卒業後中央大へ入学。昭和17年繰上げ卒業し入営。スマトラの野砲兵部隊で敗戦となっています。学生時代はいくつかの同人雑誌に小説を投稿する文学青年だったようです。

敗戦後、秋にリババレー収容所に入り、約1年後の1946年暮れに体調を崩してニースン日本人病院に入院。翌47年1月にオックスフォードシャー号に「患者」として乗船しています。抑留期間と宇品帰還までは、父と全く同じ「場所」にいたことになります。
病院船に乗った患者と付添者の割合は今もわかりませんが、500人ほどが乗船したと書いており、父の記述と一致します。さらに父も回顧していたように航海中に亡くなった患者があり、彼によると6人だとのことですが、その数は船にあった病室全体のものかどうかはわかりません。

父はあまり細かいことは書いていなかったので、大友さんの手記は私の知る父の記憶を補完してくれるものとして貴重な体験談でした。
しかし、父と同じ英軍病院船に乗り、同じ日に宇品港に着いた方のことを知る機会は、大友氏以外もうこれからはないのかもしれません。

宇品引揚援護局での検疫を終えた翌日は復員者名簿の作成を手伝い、その後復員手続ののち、1月22日の夜に宇品駅から復員列車に乗ったそうです。
なお宇品で受け取った支給物等について詳しく記しています。

〇援護局支給物:靴下 1足、パンツ1枚、服(上下1着)
        袴下 1、襦袢1、手拭 1、外套 1
〇広島県食糧営団:外食券6食、乾パン7袋、
握飯2食
〇患者宛「国立病院無料診察券」
〇俸給等(後日受領?):130円(給与)、日銀からの370円(引揚邦人持帰金引換通貨)
なお現金支給は不明。

参考
「わが青春期 -心に残る人々- 」
 『古希記念 大友九波作品集』(1989年)所収

 

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2025年2月 1日 (土)

宇品引揚援護局

この記事は別ブログ「海の陸兵」と重複します。

父が復員手続をした「宇品引揚援護局」のことは、これまでにも度々記事にしてきた(※)ので、もう記すことはほとんどないのですが、以前の記事でリンク先を示したAWM(オーストラリア戦争博物館)の所蔵するこの援護局の動画が Youtube にもありましたので、下に貼ります。ところどころにオーストラリア兵が写っています。1946年夏の撮影と思われます。



約1分半ほどの短い動画に収められているのは、およそ次のような場面です。

検疫/DDT消毒→茶の提供→物品回収→診察・予防接種→艀からの下船。

このなかで女子生徒が帰還兵にお茶をもてなしているシーンがありますが、たぶん援護局での一連の手続等を終え、帰還兵が施設を出て行くところだと思います。彼らを出迎え、お茶を配った女子生徒は、『宇品引揚援護局史』によれば、広島の「比治山高等女学校(現比治山学園)」の生徒たちでした。すでに記したように、『局史』には彼女らの支援を「真(まこと)に涙ぐましいものがあった」との文言があります。

さて父を乗せた英軍病院船は1947年1月19日(日曜日)に宇品に着きました。午後3時頃だったと父は記しています。しかし曜日の関係によるのか、下船は翌20日(月曜日)だったようです。航海中や下船時の出来事(※)などは既に記事にしていますので省略します。

ところで最近になって、この1月19日に宇品に着いた父の復員船に患者として乗船していた方の手記を読む機会がありました。
父の回顧でしか知らなかった病院船のことを別の方の書かれたもので確認できたのです。
次回はその手記の内容について記事にします。

参照
※ 「海の陸兵」 Ⅷ 復員 →★

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2025年1月17日 (金)

英軍病院船オックスフォードシャー号

この記事は別ブログ「海の陸兵」と重複します。


父が約6年余り(1940~45)従軍し、マレー半島とシンガポールの抑留生活(1945~1947)を終えて日本に帰還したのは、1947年の冬1月でした。今から78年前のことになります。前回まで記事にしていた「ニースン日本人病院」などの患者送還にともなって、付添者(主に炊事係)として帰還することができたのでした。送還患者には、戦時・抑留中から精神的な病を患っていた方が多かったと父は語ってくれましたし、残念なことに航海途上で水葬になった方も何名かあったといいます。

その帰還船は、上に貼った動画の英軍病院船オックスフォードシャー号(約8,600㌧)。
船の詳細はその写真とともにすでに何度か記事にしていますが(参考※3)、この船はすでに第一次世界大戦から病院船として就航しているベテランでした(※1、※2)

2011年から父の従軍の記録を調べていたとき、何よりも嬉しかったことは父の思い出に刻まれた病院船オックスフォードシャー号の貴重な写真や動画を見いだしたことでした。
この動画は1943年の地中海(北アフリカ?)にあるどこかの港で写されており、傷病兵などの様子を見ることができます。上の動画が短編、下に貼ったのは長編になっています。上の動画でいえば最後に写っている出港時の姿がとても印象的です(2:00あたりから)。4本マストと高い煙突の貴婦人のごとき美しい船影を見ながら、父の記憶を共にできたことは大きな喜びでした。

父を乗せたこの船がシンガポールの港を出航したのは1947年1月7日でした。この日は満月だったようです。約2週間の航海ののち1月19日に広島の宇品港に着きました(上陸は20日)。カレンダーを確認すると、この19日は日曜日であったことがわかりました。奇しくも1947年1月と今年2025年の1月カレンダーと曜日が一致しています。とすれば、今日17日金曜日はいったいどのあたりを航海していたのか確認してみたくなります。おそらくですが、すでに沖縄諸島の沖合をゆっくり北上していたのではないかと勝手に想像しています。

映像には父も使ったであろうタラップ、傷病兵、軍医や看護師の姿もあります。2週間の航海で父が親しく接した主計将校や下士官はこの時も乗船していたのでしょうか。この映像は1943年に北アフリカや地中海で活動していたときのものといわれます。その後この病院船は1945年になるとイギリス太平洋艦隊に配属され、日本軍の捨て身の反抗が続くレイテ島沖、沖縄方面などで軍医療の支援を行い、翌1946年に陸軍へ移管となり、翌年にかけて極東方面等で多くの患者の搬送業務を行いました。

戦時、日本軍によって傷ついた連合国の将兵を治療・搬送していた同じ船が、戦後になって元日本軍傷病兵らを故国に搬送することになったわけですが、従軍船とはいえ、休みなく海を駆け巡る姿には何か崇高なものを感じてしまいます。
父が日本に帰還する1947年にこの病院船は3回宇品港に寄港していたことがわかっています。その第1回の宇品寄港によって父は帰還できたのです。父は、航海中に親しくなっていた主計将校と下士官(軍曹?)から、下船時に受けた或る厚意を忘れませんでしたし、この船への感謝の念を終生持ち続けていました(※3)。



参考(サイト)
※1 The British Pacific and East Indies Fleets 
    → H.M.H.S. OXFORDSHIRE
※2 Roll of Honour
    → HMHS Oxfordshire
※3 このブログ「海の陸兵」(Ⅷ 復員) の各記事

なお動画の船名は「H.M.S Oxfordshire」とありますが、
接頭辞はH.M.H.S も使われています。
H.M.H.S ・・・His/Her Majesty's Hospital Ship 
H.M.S ・・・・・His/Her Majesty's  Ship 

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2025年1月 5日 (日)

ニースン日本人病院(5)

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軍医小谷勉氏の絵に「衛材科(衛生材料科)」の建物を描いているものがある。入口・木戸に「衛材科ニ用事ナキ者 立入厳禁」の札がある。建物が樹木の間にあって、おそらく病院全体の環境も悪くはないように見える。
(2)の記事」で紹介した「院内配置図」を見ると中央付近に「一衛」の文字が見えるので、これが絵の衛材科(病院組織としての衛生材料科)のことであろう。

ところで父の話では、自分たちの作業隊は「第二衛材科」と呼ばれていたと語っていた。「院内配置図」の右上には「二衛」の文字があるので、ここが父たち作業隊員の居住区だったと思われる。
資料(※)によると、「二衛材科」と記された組織・人名表があり、その備考欄には以下の文言が記入されている。

日本軍衛生材料作業隊ハ「リババレー」作業隊ニ在リテ聯合軍ノ指揮ヲ受ケ作業中。

下は父が復員時に持ち帰った写真。1947年夏頃の「ニースン日本人病院作業隊(衛生材料作業隊)」の隊員を写したもの。
ただし念のため写真の解像度は意図的に低くしてある(父は後ろから2列目の左から3人目である)。

中断するかもしれないが、ニースン日本人病院については引き続き記事にする予定。


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    ニースン日本人病院作業隊員(第二衛生材料科 1946年夏)

※「南方第1陸軍病院戦史資料(原稿)」
 アジ歴:南方軍・第7方面軍等終戦処理関連資料12参照

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2024年12月26日 (木)

ニースン日本人病院(4)

この記事は別ブログ「海の陸兵」と重複します。

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軍医小谷勉氏の描いたものに、上掲の「埠頭風景」と題する絵がある。病院患者を日本へ送還する作業を描いた港・埠頭の風景であり、病院の車、英連邦軍担当者も含めた関係者の姿が描かれている。
この絵をもとに、父が書き記した或る出来事についてみる。

父の回想によれば、作業員は衛生材料の整理だけではなく、日本へ帰還する病院患者を港まで送る仕事もあった。閉ざされた病院内の作業だけの毎日から解放されて、院外の様子や港の景色を見る機会は作業員にとって心躍るものだったに違いない。港に寄港する船の乗組員や日本人看護師とも接触する貴重な機会だったらしい。けれども父ら抑留者の帰還の予定は全く不明であり、絶望の日々が続くばかりであった。
以前の記事でも触れたが、父の回想をもう一度記す。

ある日、病院の患者送還に立ち会った際、病院船の一人の看護婦と話をしていたら、岐阜の恵那出身であると知らされ、彼女から岐阜空襲の被害のことなどを聞くことができた。私は急いで家族宛の手紙を書いて彼女に託したのである。

小谷氏の絵は、まさに父のこうした体験をも描いているようにみえる。みえてしまうのである。
同郷岐阜県出身のひとと言葉を交わすことができて、父はずいぶん嬉しかったであろう。敗戦後、父と実家との間で連絡を取り合うことはできなかったようだが、千葉市の留守業務部から敗戦後半年余り経ってから一枚の葉書が実家に届いていた(以前の記事→★)。父の抑留先は不正確ではあったが、親族にとって父の生存を知る唯一の便りであった。

他方実家の親兄弟の安否がわからなかった父にとって、彼女から岐阜空襲の被害を聞いたときは心の動揺を抑えられなかったという。だが恵那出身の看護師に託した父の手紙の行方は結局不明のままだった。
空襲による実家の焼失や家族の無事を初めて知るのは岐阜に復員した時である。

次回も小谷氏の絵、そして父が持ち帰ったもう一枚の写真を見る。

 

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2024年12月25日 (水)

ニースン日本人病院(3)

この記事は別ブログ「海の陸兵」と重複します。

「最終残留記念帳」にある一連の絵を描いたのは軍医(最終階級大尉)の「小谷勉」氏である。その名は「最終残留者記念帳」の名簿にも記載されているので病院閉鎖まで勤務しておられたのであろう。
彼は1942年に歩兵第8連隊に入営後、43年にはシンガポールに赴任し、47年に日本へ帰還後は整形外科医として阪大、大阪市大、米国留学、大阪市大付属病院長などを経て、1976年に亡くなった。敬虔なクリスチャンであり、画家でもあった。「大阪臨床整形外
科医会会報」第25号 参照 →★

今回は病院内に建設された「演芸場」の絵と父が持っていた演芸場完成記念写真を見る。
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さらに「演芸場」建物部分を拡大したもの。

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この絵と父が持ち帰った下の写真を比較してみる。
写真最前列中央の方が犬を抱いているが、絵を見ると
広場に犬らしき動物が2匹描かれているので、写真に写っているのはひょっとして絵の犬の一匹かもしれない。
これは演芸場完成記念時の写真だと父は言っていた(1946年9月ごろ)。演芸場正面の意匠とNee-Soonの文字は、絵でもはっきり描かれていることが確認できる。
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父はこの演芸場設営に自分も携わったこと、劇に出たり患者らと一緒に歌を歌ったことなどを回想している。リババレー収容所の時と同様に、楽器類は作業隊や患者を含む病院関係者が自作したらしい。
ところでこの写真に写っている方々の詳細はよくわからない(確認作業中なので後日また記す)。たしかに父(最後列右端)が写っているので、父の所属した第二衛材科作業隊員の可能性が高いが、その他に病院関係者(文化厚生部員など)も入っているかもしれない。なお病院関係者は「記念帳」の最終職員名簿と別資料の「南方第一陸軍病院編成表(1946年8月1日現在)」()で確認できるが、実はこの「編成表」に父の名も載っている。


次回は患者送還の場面を描いた「埠頭風景」の絵を見る。

「南方第1陸軍病院戦史資料(原稿)」
アジ歴:
南方軍・第7方面軍等終戦処理関連資料12参照

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