旅行・写真・無線

2024年7月15日 (月)

熊野三山(1)

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羽黒山の参道・杉並木 20231016

昨年の秋10月に『おくのほそ道』を辿る「みちのく」ひとり旅の時のこと。
山形の出羽三山(といっても足で登ったのは羽黒山のみ)へ行ったとき、麓の「いでは文化記念館」の展示で初めて知ったことがありました。それは修験道と山伏の勢力範囲のことです。

それによると三十三ケ国が「羽黒山」の支配、残り三十三ケ国のうち二十四ケ国が「熊野三山」、残り九ケ国(九州)は「英彦山(ひこさん)」が支配するとされていたのです。「羽黒山」による最西の勢力圏は、今の京都府のうち丹後と丹波、さらに滋賀県、三重県まで及んでおり、羽黒山の影響力の大きさを物語っていました。

帰ってからもそれが頭に残っていて、ひさしぶりに「熊野三山」へも行ったのが11月末のことでした。
むかしは伊勢道から南へは自動車道がまだ十分整備されていなかったのですが、今は紀勢自動車道や熊野尾鷲道路(熊野大泊まで)などのおかげで大幅に移動時間が短縮されてかなり便利になっていました。

初日朝早く出て、一気に本州最南端の潮岬(串本町)へ。
ここで思いがけず「近大マグロ丼」に出会いました。そういえば岬の東隣紀伊大島に近大の養殖場があったのでした。
その食堂のカウンター席から熊野灘・太平洋をながめながら、20年以上前に本州最西端の「犬吠埼」へ行ったことを思い出していました。
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潮岬 20231128

さて「熊野三山」。
昼には潮岬から新宮市まで北上。
まず「熊野速玉大社」なのですが、行く前に神倉山の摂社「神倉神社」を先に訪ねました。

つまり「熊野古道」の第一歩ということになります。
鳥居を前にして、いきなり参拝を絶望させる壁のような参道が待ち構えていて、これではまるでロッククライミングをしているかのような「登山」です。学生時代に行った「蓼科山」山頂近くのガレ場を思い出してしまいます。

毎日参拝するという地元の年配の方に励まされながら、急峻五百数十段をなんとか登り切り、ゴトビキ岩へ到達。
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登ればそこは絶景。新宮市内と熊野灘を一望できました。
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霊力を感じさせるゴトビキ岩。
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熊野三山に祀られている熊野権現は、この神倉山にまず降臨したという伝承があって、熊野速玉大社は、だから新宮といわれるようになったとか。

登り口近くには「神倉小学校」があって、神倉神社を訪れた宮崎駿が木造の体育館の姿にいたく感動し、その足で学校を訪問し見学をしたという話はよく知られています。
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新宮市立神倉小学校体育館 20231128

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2024年6月28日 (金)

奈良県庁屋上広場

奈良県庁の屋上が整備されてから15~6年になると思う。
若草山の山焼き、大文字送り火などの行事があると特定時間帯の入場は抽選になるが、それ以外は自由に展望できる。
市内は高い建物が制限されているので、この県庁屋上ぐらいしか眺望の良いところはない。ただし行楽期以外平日はほとんど人の姿はない。
前回見た定点観測地の大仏池の比較同様、今回は《2018年11月》と《2024年6月》の県庁屋上からの眺望を並べてみた。

「大仏殿と二月堂」
右奥が「二月堂」の屋根。二月堂からの眺望は素晴らしいのだが、逆側から見ると屋根しか見えないのが不思議。およそ五年余りのあいだに「良弁杉」の背が少し高くなっているのがわかる。
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「南大門と若草山方面」
左が「東大寺南大門」。
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さて、興福寺五重塔は120年ぶりの修繕工事中。
再び元の姿に会えるのは約7年後だとか・・・
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2024年6月18日 (火)

飛火野から大仏池へ

西国三十三所満願のお礼参り。先月は信州善光寺。
次は?ということで、今月は行き慣れた奈良。
「二月堂」にお礼参り。

早朝いつもの場所に車を置き、
高畑から「禰宜道」(今回は「下の禰宜道」)で春日さんへ。
※「禰宜道」:春日大社HP 

そのあと「飛火野」の大楠と神鹿に挨拶。
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飛火野から左手に大仏殿を遠望しながら北へ浮雲園地・春日野園地を通って二月堂まで散策。
二月堂は三十三所の番外札所のひとつになっていて、むかしからお礼参りに訪れるひとも多く、堂の裏手には西国三十三所参拝道があり各所の石仏群が並んでいます。

今回の目的が終わったので、二月堂からそのまま西へ向かい最後に大仏殿北側の「大仏池」に。
池は2014年に浚渫工事が行われ、一部樹木も整備されました。池の東側には
大好きな講堂跡がありますが、あたりは整備のため現在も工事が行われています。
大仏殿北側に正倉院があるので、修学旅行生などを時折見かける以外、池付近は鹿さんを除いて旅行者などの姿はほとんど見かけません。池の西側には新造の「奈良公園事務所」があり休憩もできます。人波、鹿波に少々疲れたときには絶好の場所。

ここは自分にとって「飛火野」とともに定点観測地みたいなところ。
何枚もある写真の中からおよそ10年前の晩秋と今回の初夏の景観を比べてみました。写真左手前の南京ハゼは根元から切られていました。

2013年11月(拡大可)
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2024年6月(拡大可)
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この時期やはり鹿の子斑

草の原何を鹿の子のはみそめし 加舎白雄

まだ母親に乳を求める子、
横になったまま草を食む仕草をしている子など
見飽きません。

〇飛火野/片岡梅林
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〇春日野園地
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2024年5月31日 (金)

安曇野市豊科近代美術館

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 豊科近代美術館(1992年開館) 長野県安曇野市豊科 2024年5月23日

「碌山美術館」の次はいつも「安曇野市豊科近代美術館」へ足が向く。
車で10分あまり。
高田博厚の作品収蔵数は日本で最も多いという。
あいにくの曇り空だったが、山々の残雪は美しく、美術館隣接のバラ園も見頃を迎えていた。
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他に高田の作品をまとまった数で鑑賞できるのは「福井市美術館」。
解説を含めその展示すべてが、故郷のひとびとの彼を慕う心に支えられていることを実感したおぼえがある。
まだ行ったことはないけれど埼玉県東松山市の「高坂彫刻プロムナード(高田博厚彫刻群)」に32体が野外展示されている。

帰宅後、彼の『分水嶺』などを読みたくなったけれど、
探し出すのにずいぶん苦労したのだった。
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美術館隣接のバラ園にて Eddies Crimson     2024年5月23日

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2024年5月27日 (月)

碌山美術館

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碌山美術館《碌山館 1958年開館》 安曇野市穂高 2024年5月23日

ときどき、急に荻原守衛(碌山)に会いたくなって車を走らせる。

《碌山館》の彫刻展示の配列は1958年開館以来同じとのこと。
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2008年に開館した《杜江館》(絵画館)の入り口には碌山の言葉。
彼が「最親友」といった片岡當(まさ)宛ての手紙の一節。

 事業の如何にあらず
 心事の高潔なり
 涙の多量なり
 以て満足す可きなり

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2024年5月 5日 (日)

月もたのまじ息吹やま

おりおりに伊吹をみては冬ごもり 芭蕉  [後乃旅集 如行撰]

そのままよ月もたのまじ息吹やま 芭蕉  [   同上   ]


この冬は西国三十三所巡りをする機会が多かった。
1月末に姫路市の二十七番書寫山圓教寺と加西市の二十六番法華山一乗寺へ行ったときは、新幹線で姫路まで行き、そこからレンタカーを使うことにした。日帰り。

朝5時台のまだ暗いなか始発電車に乗って名古屋駅へ。
下り名古屋始発は6時20分のぞみ271号だが、今回は姫路行きなのでこれも名古屋始発の6時36分ひかり351号を使う。座席は進行方向右。夜明け前の澄み切った空が広がっていた。

木曽川を渡るころ、車窓から少し後方を眺めると夜明け前の御嶽山の偉容があった。岐阜羽島駅を出て長良川を渡り、やがて揖斐川にさしかかると御嶽山と金華山・岐阜城がほんの一瞬だが並び立つ。
撮ったときはわからなかったが、よく見ると岐阜県庁、右端に墨俣一夜城(資料館)の姿もある。
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垂井町あたりでもなお御嶽山の姿は車窓にある。さすが三千㍍級。
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名古屋を出れば伊吹山が見えるはずなのだが、進行方向右側の座席からは時々しか視野に入ってこない。
やがて関ヶ原の山間を過ぎ北方向の視界が開けてくると、突然雪景色が広がり、迫力ある伊吹山の山容が車窓に広がってくる。山頂付近は朝日で次第に赤みを帯び始め、姿は刻々と変化する。だがそれはいつも東(濃尾平野側)から眺めている優美な姿ではない。巨大な岩の塊が転がっているようなゴツゴツとした威嚇的ともいえる直線的フォルム。
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芭蕉も愛した東から眺める伊吹山に月の趣などはいらない。
「そのままよ」と讃歎された麗しい姿を懐かしく思い描いていると、あっという間に車窓にはただ近江の冬景色が広がるだけだった。
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    [濃尾平野からみる冬の伊吹山 2022年1月下旬]


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2024年5月 2日 (木)

馬の尿する枕もと②

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旧有路家住宅 屋敷内の厩(馬屋):3頭分設えてある。20231017

この「封人の家」は、庄屋の屋敷として堂々たる構えと風格を備えています。上の写真は母屋の板間の囲炉裏から広い土間を挟んで見た馬屋(厩)ですが、左側にさらに2頭分の馬屋があり、家のどこにいても常に馬の様子がうかがえる間取りになっています。

さて、芭蕉らの泊まった「封人の家」はどこの誰の家だったかについては昔から諸説あったようで、とくに曾良の『随行日記』が再発見・刊行された昭和18年頃からは議論が本格化したようです。曾良が「和泉庄や、新右衛門兄也」と記録している家とはどこなのかなどをめぐり、現在の「封人の家」の他にも宿の候補地はいくつか検討されたようです。議論が落ち着かなかったのは、史料の少なさの他に、当時この地域には国境争いがあったことや芭蕉らの歩いた道の特定が簡単にはできなかった事情もあったのかもしれません。
その後この屋敷の解体復元工事が1971~73年に行われ、家の様式や建築技法が300年以上の歴史を経ていると推定され、芭蕉がこの地域を歩いた頃には既にこの家があったのではないかと考えられるようになりました。さらに屋敷内にあった古文書やわずかに残るその他の地域史料の分析などによって、この旧有路家の屋敷が芭蕉の泊まった家の可能性はかなり高まったようです。
※参照『最上町史編集資料 第11号(堺田・有路家旧蔵文書)』
    1983年  解説の17~22頁

たぶんその後も議論は続いているのでしょう。
ただ所詮ブログなのでこれ以上深くは触れません。

帰宅後あらためてこの句について解説している幾つかの資料を図書館で調べてみましたが、文字だけの解説文ばかりを見て疲れたので、何か絵や図のようなものがないかと探していると、『マンガ日本の古典 奥の細道』(矢口高雄 中公文庫)』に目がいきました。その Part4「よしなき山中に・・・」を読みながら、ハッとするような描写と記述に出会うことになったのです。

その一コマ(136頁)には、馬屋の二階で眠る使用人の姿があり、さらに興味深い解説文(134頁)もありました。一部を引用します。

「大小の差はあれ有路家は苗字を許された肝入り(庄屋)であるから、使用人(作男等)の五、六人は常時かかえていたはずである。しかも当時の庄屋と使用人の関係は厳然たる一線を画するものだった。例えば厩のある家の使用人の寝所は、ハシゴで登った厩の二階だった。そこにワラを敷き、シベ布団(綿のかわりにワラが入った布団)で眠るのが慣例だった。」

そして秋田県の農家の生まれだった矢口さんは、昭和三十年代に「厩の二階で眠る使用人たちの姿」を見たことがあるとも書かれています。

今のところ矢口さんのこうした説明を他の資料で確認することはできていませんが、ありうる話です。
旧有路家の屋敷でいえば、芭蕉たちが寝たのは、厩のある「土間」と「ござしき」を挟んで少し奥にある「なかざしき」ではないかといわれます。それでも馬の小便の音が聞こえるようなこの地域の「人馬同居」の暮らしぶりに芭蕉もおおいに感じるところがあったのだと思います。句の「枕もと」の主人公は、やはり芭蕉と考えるのが順当なのでしょうが、ひょっとすると矢口さんが描いているような厩の二階(上の写真参照)に眠っていた作男の気分になって詠んだとも考えられます。

この句は旅の悲哀や辛さだけを詠んだものというよりも、むしろ人馬同居の生活をするこの地域の風土をふまえ、すこし諧謔味も含ませながら仕立てたものでしょう。何の衒いもなく、気取らず、鄙びた地域でのありのままの体験と実景を詠んだ句のように思えますが、一方で現代人にはあまり馴染みのない古典籍などにも通じていた芭蕉のことですから、自分などにはとうていわからないもっと深い意味も含んでいるかもしれません。

どうしようかとちょっと迷ったのですが(サクラちゃんにはやはり可哀想なこと)、以前たまたま見つけた或る動画を埋め込みます。
調馬索を持つ方との会話を聞いていると、お馬さんへの親愛(≒敬愛)の情は今も昔も変わらないものだと思いました。
(なお、馬の排尿量は体重比でみるとむしろ人間より少ないとか)


※「尿」の読みのこと。
諸説あって、一般的には「しと」でしょうが、【曾良本】あるいは【芭蕉自筆とされる中尾本】などには「ハリ」のルビがふってあり、最近は「ばり」の読みが有力のようです。なお『泊船集』に「蚤虱馬のばりこく枕もと」とあるようなので、芭蕉はやはり「ばり」という読みが当初から念頭にあったのかもしれません。
でもわたくしとしましては「しと」が好みですが。

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2024年4月24日 (水)

馬の尿する枕もと①

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旧有路家住宅(『おくのほそ道』の「封人の家」といわれている)
(山形県最上郡最上町堺田)20231017


昨年秋のみちのく独り旅。
『おくのほそ道』で名の知れた所をいくつか見て回ったなかで、今も印象に残った事柄をすこしメモしておきます。

蚤虱馬の尿する枕もと 
 
この句は、中尊寺を見たあと芭蕉と曾良が仙台領の「尿前(しとまえ)の関」を越えて出羽(山形県)の尾花沢へと向かう途上、「封人の家を見かけて」宿りを求め、「よしなき山中に逗留」したときに詠んだとされています。
本州東側の太平洋と西側の日本海それぞれへ水が別れゆく分水嶺ともいうべきか、『おくのほそ道』の芭蕉の旅は中尊寺を大きな分岐点として、以後文学的に新しい局面へ入ったといわれます。地理的にも現在その封人の家から歩いてすぐの所(陸羽東線堺田駅前)に奥羽山脈の「大分水嶺」があるのです。

『ほそ道』は事実と異なる文学的創作・虚構による記述も多くあり、この句も旅のなかで作句されたものではなく後に挿入されたとする見方がありますが、それはともかく、自分がこれまでもっていたこの句の印象といえば、ふたりが鄙びた山奥の家に泊まることになり、旅の悲哀や辛さを詠んだものだろう、というようなものでしかありませんでした。
ところが建物に入って屋敷の造りを眺め、管理人の方の詳しい説明を聞き、さらに地元の「最上中学校卒業生」が書いた句の説明パネルを読んでいるうちに、これまでの句の印象が変わり始めました。
その説明パネルの一部を引用します。

 質素な中にもここに住む人々は、農作を生活の中心に懸命に生きていました。中でも芭蕉が心動かされたのが「人馬同居」の生活です。『馬の尿する枕もと』、まさにここに暮らす人々は馬をわが子のように大切に育てる。寝ている時も馬の尿が聞こえるほどそばに置いて、大事に育てていたのです。
 最上町はかつて馬の産地でした。どれほど馬が生きていくうえで大切なものだったかが伺えます。江戸の暮らしからは想像もつかない生活。「質素な中でもこのように生活していけるものだ」「このような暮らしもいいものだ」と芭蕉は詠んだのです。

地元に住んでいるひとならではのこの句に寄せる愛着を感じますし、この地域の「人馬同居」の生活を背景にした句だという説明にも納得したのです。やはり現地に来てよかったと思いました(ただしこの現存する封人の家がほんとうに芭蕉が泊まった家なのかどうかについては次回の記事に回します)。

ちなみにこの地域は、江戸時代に「小国駒」といわれる名馬の産地であり、明治になっても軍馬の購買地に指定されるなど山形県内唯一の馬産地だったそうです。ここからさらに北へ足を伸ばすと、古来馬産地としてあまりにも有名な南部藩(青森・岩手)へと連なりますし、これらの地域にある人馬同居の「曲屋」(曲り家)のことも何かの本で読んだことがありました。
さらに思い出すのは柳田國男の『遠野物語』に紹介されている「オシラサマ伝説」です。娘が馬と恋に陥り夫婦になってしまうという異類婚姻譚だったと思いますが、人間と馬が強い絆で結ばれ、家族同様に暮らす地域ならではの話だと思います。

もう少し続けます。②へ

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2023年11月 3日 (金)

震災遺構大川小学校

6日かけて、この10月中旬「みちのく」ひとり旅。
自家用車を使い、往復の走行距離 1900㎞ あまり。
それにしても2ペダルMTの車は、高速道路も山坂道も愛馬のごとくよく走ってくれた。

芭蕉さんの足跡を巡りながら山形県、宮城県そして岩手県まで足を伸ばしたが、目的のひとつに震災遺構の見学もあった。
とくに市町村単位では最も多くの犠牲者を出した石巻市(死者3187人、行方不明者415人)はどうしても訪れたかった。
女川港や震災遺構門脇小学校にも立ち寄ったが、ここでは石巻市震災遺構大川小学校を訪ねた時の印象だけを記す。

学校沿革やメッセージの記されたパネルはどれも心を打つ。
爽やかな秋空のこの日、遺構のなかをたくさんの赤とんぼが飛び回り、錆びた鉄筋や説明板に羽根を休め、あたかもガイド役のように「これを見て考えて欲しい」と訪問者たちに問いかけているかのようだった。
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行方不明者捜索の際に壊された教室の腰壁部分に残る鉄筋
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訪問した日の午前、遺構にいたひとは50名ぐらいであったかと思う。誰もが静かに遺構を巡っておられた。音といえば、10名ほどのグループに「語り部」のひとがゆっくり丁寧に話す声だけだった。
校庭に立ったとき、地震発生時から50分あまり学校に待機していた児童・教職員と避難してきた住民の方たちの姿や、やがて河川津波が襲ってくる方角にある三角地帯に向かって動き出した子どもたちの後ろ姿が、しぜんに目に浮かんできたのである。
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かつて同じような職場に身を置き、地域も校種も違うけれども、そしてすでにリタイアした身ではあるが、この場に立ってまず心のなかに湧き上がってきたのは、これまでに感じたことのない「悔恨」であり「憤り」であり、そして幾つもの「疑問」だった。
疑問のうち、現場を見なければわからなかったことの大半はこの日納得したけれども、最も大きな難しい問いは、やはり現場に立ったところで答えが出るはずもなかった。
「あの時もし自分がこの場にいたら、どう判断し行動しただろうか?」

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津波は校舎2階の天井に達していたことが確認されている。
すでに12年半の年月が経過し、遺構の劣化も懸念されるなか、ボランティアなどのひとたちによる保存・維持の努力が続けられているという。
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校舎南側にある裏山と擁壁。左奥に登り口がある。
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校舎南側の、その日もそしてその後も「議論」され続けた小高い裏山の、コンクリート擁壁の上に立ち、見学を終える直前にあらためて学校と付近の全景を眺めてみた。写真奥(北側)には河川津波が遡上してきた富士川・北上川が流れている。川と学校の間、そして写真右(東側)には住宅地などのひとびとの生活の場があったが、現在はハウス栽培施設になったり更地になっている。
この大川地区で亡くなった方は418名とのこと。
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津波到達箇所は、人の立っている擁壁の下にある矢印の掲示板あたり。Rrdsc01061_20231103025401

この裏山には、襲ってくる津波からかろうじて逃げることのできた児童4名・教職員1名、その他に住民・河北総合支所職員10数名が避難した。
この児童4名のうち2名について『大川小学校事故検証報告書』は次のように記す(87頁)。

校庭からの三次避難中、児童2名は、津波を目撃して来た道を戻り、正面にあたる山の斜面を登ろうとした。うち1名は、斜面を数メートル登ったところで振り返り、水が押し寄せてくるのを見てさらに登るべく再び斜面側を向いたところで、後ろから押し倒されるように津波にのまれて気を失った状態で半分ほど土に埋まった。もう1名は、津波に巻き込まれながらも水面に出ることができ、ちょうど流されて来た冷蔵庫に舟に乗るようにして入った。冷蔵庫が波に流されて山の斜面にたどりつき、斜面に降り立ったところ、付近に半分ほど土に埋まった状態の児童がいたため、負傷していたにもかかわらず、土を掘って助け出した。助けられる側の児童も、自力で土を押しのけて起き上がった。」

当時の全校児童数は108名、欠席や保護者に引き取られた児童を除いた77~78名が校庭にいたといわれる。
この事件は学校管理下で起きたこれまでの最大の犠牲者数を出した。犠牲となった児童は死亡70名、行方不明4名(2023年7月現在)、犠牲になった教職員数は校庭にいた11名中10名とされている(小さな命の意味を考える会/大川伝承の会編集発行の冊子「小さな命の意味を考える」第2集等による)。

答えの出ないあの難しい問いは今も胸のなかにあるし、これからもあり続けるだろうと思う。けれどもここへ来てあらためて肝に銘じたことは、危険に直面したとき躊躇せず素早く命を守る行動をせよ、というあまりにも当然すぎる命題だった。

遺構をあとにしながら駐車場へ向かうとき、むかし父の取ったある行動を思い出した。
小学生のころ、夏休みに母の実家にいたとき、昼間大きな地震があり、縁側で隣に座って涼んでいた父が、揺れと同時に間髪をいれずわたしの上に覆い被さってきたときの、まったく信じられないような素早い動きのことを。

★参照した主な資料

裁判→参照・ダウンロード先
 ★平成26年(ワ)301 国家賠償等請求事件
  平成28年10月26日 仙台地方裁判所
 ★平成28年(ネ)381 国家賠償請求控訴事件
  平成30年4月26日  仙台高等裁判所 仙台地方裁判所

〇大川小学校事故検証報告書 平成26年2月
 (→参照・ダウンロード先

〇「小さな命の意味を考える」 
  第2集 宮城県石巻市立大川小学校から未来へ
  2023年8月20日第6版(→参照・ダウンロード先

〇その他(下記の遺構の展示説明等)
 ・石巻市震災遺構門脇小学校
   震災遺構(本校舎)、展示館(特別教室)
   展示館(屋内運動場)
 ・石巻市震災遺構大川小学校と大川震災伝承館

 *石巻市震災遺構HP(→参照)  

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2023年9月 1日 (金)

那谷寺(なたでら)

空を見上げると、すでに高層にはねばりのない秋雲が流れている。夕刻日陰に入ると、肌に当たる風にもやや秋の涼しさを感じる。

『おくのほそ道』の芭蕉が金沢に着いたのはちょうど今頃、旧暦七月十五日(陽暦八月二十九日)であった。そして金沢から小松にいたるまでに「秋の風」をテーマとして四句掲げている。その三句目、四句目。

あかあかと日はつれなくも秋の風

しをらしき名や小松吹く萩薄

その小松を訪れたあと芭蕉は山中温泉にしばらく逗留するが(ここで曽良と別れる)、請われて再び小松へ戻っている。その戻り道で「那谷寺」に立ち寄ったのである。しかし『おくのほそ道』の記述は、小松から山中温泉への途上に「那谷寺」へ参拝したことになっている。

石山の石より白し秋の風  

那谷寺の開創は8世紀であり、元は「岩屋寺」といわれた。その後「那谷寺」と呼ばれるようになった経緯と寺内の奇石について芭蕉はこう記す。

花山の法皇、三十三所の巡礼遂げさせたまひて後、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付けたまふとや。那智・谷汲の二字を分かちはべりしとぞ。奇石さまざまに、古松植ゑ並べて、萱葺きの小堂、岩の上に造り掛けて、殊勝の土地なり。

芭蕉も見た奇岩霊石は今「奇石遊仙境」と名付けられている。
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境内にある芭蕉の句碑(左:1843年建立)と翁塚(右)。
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芭蕉が「萱葺きの小堂」と記した本殿(大悲閣)。16世紀に寺は荒廃したが、本堂は1642(寛永19)年に再建され、さらに1949年に解体修理されている。本尊は十一面千手観世音菩薩で、芭蕉の説明とは異なり花山法皇の時代以前から納められている。この階段左側が奇石に接している。
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名勝の書院庭園・琉美園よりも、むしろ本堂へ続く参道沿いの杉並木と苔が今も印象に残る。暑い日ではあったが、苔の絨毯に差し込み揺れる木漏れ日と樹影の織りなす景象に、当日の参拝者で立ち止まらないひとは誰もいなかった。
できることなら季節ごとに訪れてみたいと思ったのである。
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〇写真:8月5日撮影
〇新版『おくのほそ道』潁原退蔵・尾形仂 訳注 角川ソフィア文庫

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