俳人 内藤丈草

2023年3月 6日 (月)

呑水(5)

(承前)
承前といっても、「呑水」のことを記事にしたのは半年以上も前のこと。今さらという気もするが、中途半端は嫌なので書き足しておく。
振り返ると、『犬山市史』の「呑水」について書かれた林輝夫の文章のことから始め、彼が『艸ほこ』(呑水)の翻刻をしたことや美濃加茂の俳誌『自在』を主宰していた西田兼三との交流のことなど、幾つかの事柄(断片的事実)を繋ぎ合わせながら記事にしていたのだが、肝心の呑水そのひとについては(2)で墓碑や生涯などについて軽く触れただけだった。

まだあまり触れていなかった彼の句や『艸ほこ』、そして追悼集『蓮の実』のことについて最後に少し記しておく。

〇彼の句。
前に記したものを含め、あらためてそのいくつかを見る。

梅散るや浅黄布子の洗ひ時   「矢矧堤」

手のひらで雨をしる夜の水鶏哉 「菊の香」

朝経にまけじまけじと蝉の声  「砂川」

鬼松の影やはらりと夏の月   「東華集」

人気なき雨の匂いや梅山椒   「渡鳥集」

 辞世
蓮の実の十方にとんであそびけり

意味のよくとれない句も多いなかで、自分にとって比較的わかりやすい句だけを少し拾ってみたが、もちろん句を評することなど自分にはできない。ただし名古屋の情妙寺で碑になっている「手のひらで」の句は気に入っている。

〇彼のいくつかの文章を集めた『艸ほこ』。
林がその一部「蜂屋へ紀行」を翻刻した『艸ほこ』には、他に内津(今の春日井市内津)への旅(遠足)や丈草から届いた手紙などが記されている。しかし翻刻できるような力は自分にはないので、いったい何が書かれているのかは今のところほとんどわからない。

〇呑水の追悼集『蓮の実』。
国文学研究資料館からその写しを送ってもらった。「序」が楚竹、「封塚辞」は犬山妙感寺の日長、「跋」は犬山出身の馬州が書いている。
二つ目の日長の文章には、呑水の遺言として「骨は源頂山におさめ、生前の抜歯を一翁山に贈るべし」と記している。したがって以前の(2)にある碑の写真のように、かつて住持であった犬山の一翁山妙感寺には「歯塚」が建てられたのである(馬州の跋では、呑水の「朝起の癖」にまつわる思い出話が書いてあった)。なお作句者をみると、地元尾張だけでなく近江、飛騨、伊勢、さらには奥州や九州のひともいる。僧侶であり俳人でもあった呑水の人柄を慕うひとはずいぶん多かったのだろうと思う。

それにしても気になるのは、『艸ほこ』に収められている呑水宛ての丈草の手紙である。

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    呑水(遠光院日陽聖人)の歯塚背面 
     [犬山・一翁山妙感寺 2022年]

参考:
〇なぎの舎随筆Ⅰ
「尾北俳諧覚え書」市橋鐸 私家版 昭和45年
〇『蓮の実』 呑水追善 楚竹編 享保十四年
〇『矢矧堤』については
『新編岡崎市史 13近世学芸』の翻刻参照
〇他の参考図書は「呑水(2)」に記した。

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2022年7月14日 (木)

呑水(4補)

(承前)
前回紹介した美濃加茂市深田の「深田スポット公園」。
そこから上流に向けて、堤防沿いに「諷詠への径」と名付けられ、石版に刻まれた多くの句が並んでいるが、そのなかに呑水の句もある。この句は調べてみると、もともとは兼松嘨風編の『袋角集』にあり(字体もそこから取っている)、「ナゴヤ呑水」と記されていることから、彼が名古屋の情妙寺に移ってからの句と思われる。

白鷺の脛をかくさし涼み川  呑水 『袋角』

しかしよく見ると、下に添えられた読みを示すプレートに誤りがあった。
×脛をかくして 〇脛をかくさし(じ)

呑水のためにも、いつか訂正されることを願います。
撮影:2022/06/22
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2022年7月13日 (水)

呑水(4)

(承前)
林輝夫が美濃加茂市の俳誌「自在」に呑水の紀行文を翻刻掲載することになった経緯は、林の記したところによると概略以下の如くである。


林は平成6(1994)年秋に「艸ほこ」の存在を知り、翌平成7(1995)年1月に早大図書館に問い合わせたところ在庫していることを確認した。
貴重なしかも未発表の資料であることを関係者に話すが、関心を示すひとはいなかった
すでに交流のあった美濃加茂市の俳誌『自在』主宰の西田兼三氏を訪ねた際に話をすると、強い興味を示され、翻刻を手がけてほしいと言われ、同年4月14日に大学から西田主宰に送られてきたコピーを林が受け取り翻刻作業に入った。
しかしその2週間後の28日に残念ながら西田主宰は急逝したのである。

以上の経緯は「自在」の平成8(1996)年5月号に記されている。そこに林は、西田主宰の「生前の御厚意に感謝し取り敢えず一部だけを、謹んで一周忌の霊前に捧げます」と記した。『艸ほこ』に収められている幾つかの題名のある文章のうち「蜂屋(へ)紀行」についてのみ、その5月号と6月号に2回に分けて、原文のコピーとともに翻刻文章が掲載されたのであった。
以上のような経緯は、林が『犬山市史』(通史編 上)に呑水に関する原稿を執筆していたまさにその時期と重なっており、この経緯はどうしても、たとえ短い文であっても『市史』の原稿に加えておきたかったのである。それは西田への感謝であり、手向けでもあったと思う。

林輝夫と西田兼三との出会いと交流については西田の追悼句集(「自在」1995年6月号)に林が「先生とのおついきあい」と題する文章を書いている。
これによると、出会いのきっかけは兼松嘨風(元禄期の俳人:今の美濃加茂市深田在)のことであった。西田は地元の俳句結社「自在」を主宰するとともに、郷土(東美濃)のとりわけ元禄期俳人の嘨風、今の美濃加茂市蜂屋在の魯九らを研究していた。他方、丈草研究の一環で昭和初期からすでに元禄期の東美濃の俳人を調べていた市橋鐸のことを知っていた西田は、市橋の遺稿を弟子の林輝夫が受け継いでいることを聞かされ、ふたりの交流がさらに深まったという。

*****************************
美濃加茂市深田の木曽川堤防にある「深田スポット公園」には、平成5(1993)年に兼松嘨風の句碑などが建立されたが、西田はその事業の中心的存在であった。下の写真は美濃加茂市深田の木曽川右岸につくられた「深田スポット公園」。
ここに「兼松嘨風」を記念する句碑と顕彰碑が設けられた(1993年)。
嘨風の句碑は「山間の 雪の中ゆく 筏かな」
*なお関連する記事として★参照
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句碑のあるスポット公園から川沿いに上流方向に句が並ぶ「諷詠への径」。
芭蕉、丈草、嘨風、魯九、呑水などの句が石版に刻されている。
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写真:撮影 2022/06/21

参考:
『郷土蕉門の元禄俳人の足跡 兼松嘯風編』
  西田兼三  郷土元禄俳人顕彰会 1994年
『東美濃蕉門俳句の鑑賞』
  西田兼三  郷土元禄俳人顕彰会 1995年

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2022年7月 7日 (木)

呑水(3)

(承前)
再び『犬山市史 通史編 上』にあった例の一文のことに戻る。

「釈呑水」を説明する文章の最後は次のように締めくくられていた。

「・・・享保一四年(1729)没。追悼集に『蓮の実』がある。自筆原稿が早稲田大学図書館にあり、俳句結社『自在』によって活字化された。

文末の青文字部分は(1)でも述べたように、中途半端に付記された一文としか思えないのであるが、しかし言葉足らずの走り書きのようなものになったのには、何か訳があるにちがいないとも感じたのである。呑水の自筆原稿の存在や俳句結社「自在」のことについて、今どうしてもこの場を借りて記しておきたかった経緯、あるいはこれを記したときの筆者の心裡を知りたくなったのである。

そこでまず、筆者のいう早大図書館にある呑水の自筆原稿とはそもそも何なのかを確認した。
大学古典籍データベースを検索してみると、「艸ほこ 霊江斎呑水 稿」という名の文献が見つかった。印記は「小寺玉晁旧蔵」とある(小寺玉晃 1800-1878 は尾張藩の陪臣であったが、好事家、随筆家としても知られたひとであり、貴重な文献を蒐集したことでも知られる)。
ちなみに愛知県西尾市の「岩瀬文庫」に小寺の「愛知古今俳人百家撰」(1878)があり、呑水について以下のような記述がある(古典籍データベースの書誌情報を参照しただけで、この典籍を実見していない)。

(霊江斎呑水)源頂山情妙寺六世遠光院日陽和尚也翁門人ニテ翁没後宝永庚寅十月十二日十七周忌義仲寺ニ至リ追福ヲナシ荘厳ノ花ヲ咲ス其集ヲ不断桜ト号初犬山妙感寺ノ住職也元禄十七年ヨリ情妙寺江入院予呑水自筆ノ所々江紀行之記アリ艸ほこと云…

以上のことから、『市史』の筆者がいう呑水の「自筆原稿」とは、早大図書館にある小寺玉晃旧蔵の「艸ほこ」にまちがいない。

次に『市史』の「釈呑水」の執筆者のことである。
犬山市史『通史編 上』に呑水の項目があるのは、第二章第四節「城下町犬山の文芸」である。巻末に執筆者の分担が記してあり、第四節の執筆者は「林輝夫」とあった。彼は旧制小牧中学校時代の市橋鐸の教え子であり、市橋が学んだ同じ大学を卒業し愛知県の教員となったが郷土史家としても活躍した。ふたりは長く師弟としての交流があり、市橋の遺稿も彼が引き継いだという(その辺りの事情は前にも挙げた「文献」→★を参照)。

さて次に俳句結社『自在』について調べてみた。
『自在』は岐阜県美濃加茂市の俳句結社であり、林が「『自在』で活字化された」と書いているのだから、この俳誌に呑水の「自筆原稿」の翻刻を見つけることができるはずだ。そこで俳誌が揃えてある美濃加茂市の図書館へ行き、翻刻の記事を探すことにした。
あの一文が書かれたのは『市史通史編 上』の出版年である平成9(1997)年より後ではないはずだが、いつ「活字化」されたのかはわからないので、ひとまず1993年からの各号を順番に紐解いていった。見ていくと、その「自在」という名の俳誌に林輝夫は頻繁に文章を寄稿していたことがわかった。俳誌の代表者である西田兼三(侑三)のこと、あるいはそもそも犬山の林輝夫がなぜ美濃加茂市の俳誌に寄稿していたのかも興味深いが、そうしたことは次回また触れることにする。

調べてゆくと「自在」平成8(1996)年の5月号と6月号に二回に分けて以下の翻刻が掲載されていた。

 蜂屋紀行 犬山住 呑水稿  林輝夫翻刻

これでようやく「市史」の謎のような一文の意味を読み取ることができた。つまり林は、市史執筆と同時期に見つけた呑水の「艸ほこ」を翻刻したのだが、そのことをどうしても市史のなかに書き添えておきたかったのである。おそらく師であった市橋鐸も知らなかった呑水の文書を見出し翻刻できたことの喜びのようなものを、あの遠慮がちな一文は表しているような気がするのである。

次回は、そもそもこの翻刻が「自在」に掲載されることになった経緯を辿ってみたい。

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平和公園「情妙寺墓地」(名古屋市東区平和公園1丁目)
写真の最も奥に歴代住持に並んで呑水の墓もある(2022/06/04撮影)。

参考:
『艸ほこ』 霊江斎呑水 稿  
  早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」参照
『愛知古今俳人百家撰』 
  愛知県西尾市岩瀬文庫「古典籍データベース」書誌情報参照
『自在』 
  岐阜県美濃加茂市俳句結社「自在」俳誌 1993年以降参照



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2022年7月 1日 (金)

呑水(2)

(承前)
『市史』の一文を謎解きするのは次回にして、肝心の「呑水」についてひとまず簡単にメモし、彼の墓碑や句碑が現在どうなっているかを写真記録として載せておく(参考文献は下記)。

寛文元(1661)年犬山の生まれ。露川門の俳僧。俳名呑水。
丈草の竹馬の友といわれる所以は、丈草の追悼集『幻の庵』に寄せた呑水の句の前書きに「竹馬の戯れのみ思ひて」あるいは「故郷の親友の志に」とあるからで、丈草自身が呑水を幼馴染みと記した文献は無いという。
11歳で仏門に入り、のち犬山の一翁山妙感寺四世となり13年在住。
さらに名古屋の源頂山情妙寺六世として16年在住。
享保14(1729)年十月四日入寂。
僧名は「日陽」、諡号は「遠光院日陽上人(聖人)」
平和公園情妙寺の墓碑左面に「霊江斎(齋?)呑水墓」とある。

辞世句「蓮の実の十方に飛んで遊びけり」(平和公園 情妙寺墓碑背面)
句 碑「手のひらに雨としる夜の水雞哉」(名古屋市東区 情妙寺)

下は墓碑や句碑の写真(拡大可)
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左:墓碑(平和公園内の情妙寺墓所 2022年6月4日撮影)
  正面「六世遠光院日陽聖人」
  左面「霊江斎(齋?)呑水墓」、右面に没年月日
  背面「蓮の実の・・・」の句があるが風化で一部分しか読めない。
右:句碑(名古屋市東区筒井町 源頂山 情妙寺 2022年6月1日撮影)
  「手のひらに雨としる夜の水雞哉 霊江斎(齋?)呑水」

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歯塚:『市史』では「歯塚」と記すが、その正確な意味は知らない。
(犬山市犬山山寺 一翁山 妙感寺 2022年5月29日、6月21日撮影)
左:正面「師範 遠光院日陽聖人」
  その右に「一翁山四世」左に「源頂山六世」 
右:背面「誹名 号 呑水」及び没年月日

参考(発行元などは省略):
『犬山市史』別巻「文化財 民俗」昭和60年
『犬山市史』通史編上 平成9年
『犬山市資料』第二集 昭和60年
『俳人丈艸』市橋鐸 昭和5年
『丈艸伝記考説』市橋鐸  昭和39年
『中京俳人考説』文化財叢書第71号 昭和52年
 *なおこの叢書の呑水没年(享保15年)は誤記か。
『尾張俳壇攷』服部直子 2006年

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2022年6月19日 (日)

呑水(1)

昨年の広報で犬山市が新しい『市史』の編纂準備を始めたらしいことを知ったが、その編纂基本方針を読むと、通史と資料の2巻だけを刊行し、残念ながら旧版の全面改訂ではないことがわかった。主に平成時代の新たなデータなどを追加するということなのだろう。
そんなことを気にしながら、先日図書館で市史『別巻「文化財・民俗」』(昭和60年)や『通史編上巻』(平成9年)をあらためて読んでいた。
丈草に関わる或る人物のことが最近気になっていたからだ。

その人物は蕉門の俳僧「呑水」(1661~1729)。丈草の竹馬の友といわれているひとである。
彼のことは、別巻「四 文芸家」の320-21頁と通史編上巻の576頁に「釈呑水」として説明されている。これらの説明には約12年の時間が空いているが、墓の写真の有無以外にそれぞれの内容に大きな違いはないものの、通史編上巻の説明には、今回読んだときに少し意味の取りきれない一文が末尾に付けてあった。以前読んだときには全く気にならなかったのに、である。

自筆原稿が早稲田大学図書館にあり、俳句結社『自在』によって活字化された。

自分には、市史の筆者の独り言のように思え、なぜか奇異な感じのする一文であった。そもそも俳句結社『自在』がどこの町にあるのかがすぐわからないし、呑水の「自筆原稿」とだけで内容の概要説明も全くないのである。「活字化された」(翻刻ということだろう)と書いているが、それがいつのことなのかもわからない。あたかも原稿の字数制限を気にしながら締め切り間際に唐突に追加された走り書きのようにさえみえる。
がしかしそれでいて、呑水の「自筆原稿」の存在や、それが「活字化された」ことが最近の筆者自身に関わる何か一大事だったのかもしれない、などと思ったりもしたのである。

呑水のことを知る前に、どこか気になるこの市史の一文についてまずは「謎解き」してみようと思い立ち、手始めに俳句結社『自在』のことを調べてみようとしたが、この一文を書いた筆者のことも次第に気になってきたのである。

写真:一翁山妙感寺(犬山市犬山山寺)2022年6月撮影
妙感寺四世の呑水、榎本馬州の墓碑、馬州の句碑などがある。
寺の背後は妙感寺古墳。
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2021年1月16日 (土)

丈草の座禅石

犬山市の「西蓮寺」に丈草の日用品ともいうべき座禅石がある。

この写真は数年前のもの。
最近訪れたときには丈草の座禅石であることを示す小さなプレートが添えてあった。

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この座禅石の由来について、市橋さんはこう述べていた。

   これは後年犬山藩士小林某の手に入ったのを同寺に納めたの
   だといふ。そのとき「この石はきつと下へ置いてくれるな」
   と傳言があつたとの
ことである。  『俳人丈艸』35頁

しかしこれだけでは少々意がつかめない。
調べると、赤木邦之助氏が次のように詳しい経緯を書いている。

   この石はもと内藤家の井戸端にあった。其後この宅を現在の
   木全氏の祖先が買つてここに移り住んだので随つてこの石も
   木全氏のものとなった。ところが其後幾星霜を經て同地寺内
   町の士族小林氏の手に移った。この小林氏は茶人で、今から
   三代前の西蓮寺の住職と茶友であったので、この石を同寺へ
   納めたのである。
   小林氏から西蓮寺へ引渡しの時に小林氏は「この石は必ず下
   に置いて呉れるな」と言つたので寺では石を積んだ上に置い
   てゐたが、今の住職は築山をこしらへてその上に据ゑてゐる。
     「大聖𠀋草」(『犬山市資料第二集』 32~33頁)
         *元は雑誌『智仁勇』大正9年~10年の連載
  
写真左側に句碑(例の「精霊に戻り合わせつ」の句)がある。座禅石は、真ん中がすこし窪んだ右側の石だという。
いわば丈草の使い慣れた日用品ともいうべきものを眺めていると、いまさっきまで座っていた椅子の、クッションに残った窪みを見ているような、その温もりさえ伝わってくるような気がして、なにやら生々しい空気が石の周りに漂い、詩、句、書翰などからはとうてい窺い知れない丈草の生身がこの石の上に立ち現れてくる。それは、以前も見た丈草の詩の結句の、琴梅を詠じつつ座禅する若侍の姿である。

空 門 深 築 小 蓬 莱   空門深く築く小蓬莱
終 日 詩 仙 乗 興 来   終日詩仙、興に乗りて来る
人 境 都 廬 倶 不 奪    人境都廬、倶に奪はず
座 禅 臺 畔 詠 琴 梅   座禅す臺畔、琴梅を詠ず 

       『犬山視聞図会』 「神護山先聖寺」の条より

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2020年12月 8日 (火)

内藤丈草一族の墓碑(5)

昭和初期から市橋鐸さんが踏査した内藤丈草一族の墓碑の所在について、それらは今どうなっているかを調べてきた。今回はこれまで紹介できなかった墓碑を下に記し、まとめとする。
丈草の書簡でしか目にすることのなかった彼の親族たちについて、一族ひとりひとりの名がこうして墓碑や位牌に刻まれているのを眺めていると、短い生涯ではあったが丈草の生きた日々が鮮やかに甦ってくるようである。その一方、江戸期に丈草の墓碑が犬山の瑞泉寺に存在したことは『犬山視聞図絵』に記されているが、今回の調べでもその手がかりすら全く得られなかった。確かなことは、丈草が膳所の「龍ケ丘俳人墓地」に幾多の蕉門の人々とともに眠っていることだけである。
昨年来幾度も墓地通いをして、そのたびに思い起こしたのは芥川龍之介の『点鬼簿』であった。その末尾に丈草の句が添えられている。肉親の墓を前にした芥川とは少し異なるであろうが、この丈草の「心もち」は、やはり「押し迫って来る」のである。

 かげろふや塚より外に住むばかり
 

まとめ
⑴ 少なくとも昭和期まで瑞泉寺の墓苑にあった一族の墓碑25基は、1基(義弟の第八)が瑞泉寺に残されているだけであり、丈草の父母のものを含め残りの24基は市内の別院に移されて無縁仏となっている。ただし24基のうち3基は地蔵であったと市橋さんは述べているが、今回の調査ではその3基は確認出来なかった。

⑵ 個人情報保護が厳しくなった現今、その道の研究者や縁者でないかぎり寺の過去帳や墓碑の詳細を調べることは敷居が高くなっている。今回の調査も、墓碑の移動先やあらたにわかった事が二、三あった程度で、単に市橋さんの踏査結果をなぞったにすぎない。生前市橋さんは内藤家子孫の何人かと交流があったようだが(どの方も当時は犬山市以外に在住)、今現在そうした方々の消息もわからない。

⑶ これまで紹介できなかった墓碑
 10(第八の子)以外の縁者の詳細は不明であるが、丈草の義弟である次男(新家)及び四男(本家)など兄弟の子孫と思われる。

1 「蓬山丹丘信士」 内藤丹丘尉藤原守宣 1738(元文3)年
2 「心源定水義士」 内藤源十郎藤原本平 1761(宝暦11)年
3 「仁峯玄量居士」 内藤源左衛門(恒右衛門の子か)1766(明和3)年
  「梅溪春雪大姉」 寛政9年
4 「雪巖宗白居士」 内藤源四「郎?」 1776(安永5)年 
5 「雪道淨白居士」 内藤彦右衛門本尚 1806(文化3)年
6 「大圓守鏡居士」 内藤源左衛門本武 1806(文化3)年
7 「見道智性居士」 内藤元信 1860(万延元)年
8 「法室祖輪大姉」 「内藤氏 」とのみ刻されている。歿年不明
   「幼胎童女」
9 「紫雲紹光居士」 「内藤氏」とも読めるが不明   歿年不明
   「實峯智孝大姉」
10 「梅林祖的居士霊位内藤左膳濟民(第八の子)1739(元文4)年

*1~10とも撮影年月は2019年6月。場所は瑞泉寺別院。 
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       1              2

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        3             4
 
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        7             8

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2020年12月 2日 (水)

内藤丈草一族の墓碑(4)

内藤丈草一族の墓碑をこれまで3回続けてみてきたが、ここであらためて丈草一族についてまとめておく。以前記した系図(→★)などもあるが、それを補足・修正のうえ整理した。
なおこれまでに参考にした文献等をまとめて末尾に記す。
→★は過去の記事に写真がある。

[1]丈草の祖父・伯父・伯母・従兄等

祖父:内藤仁右衛門、先祖は甲斐の出身。越前へ移り、のち尾張へ。
伯父:内藤平兵衛
   子の三太夫(従兄)は丈草書簡にもたびたび出てくる
   他に女子「まつ(了雲院)と「窓月童女」。
伯母:松壽院(墓碑は名古屋の養林寺)→★
         犬山城主成瀬正虎(墓碑は犬山市の臨渓院)の側室。   
         尾張藩重臣寺尾直龍の母。
            直龍の墓は臨渓院の墓苑(犬山市)にある→★

[2]丈草の父母、義弟・義妹。(犬山市内に墓碑のある者は青字)

 内藤源左衛門(隠居名は好本)→★
 妙順
        長男丈草(林右衛門)を産み、3年ほどで死没。
継母祖庸→★
        下記の7人の男子(推定)、3人(4人?)の女子をもうける。
次男内藤恒右衛門(常右衛門とも)→★
        新家をつくり、代々「源左衛門」名乗る。
三男委細不明だが、志村家の養子となった可能性あり(『士林沂洄』)
四男内藤儀左衛門(本好)→★
         内藤本家を継ぐ。代々儀左衛門を名乗る
五男:内藤茂助
六男:正順(近江膳所の光源寺僧侶か?)
七男内藤甚蔵
八男内藤第八
         子は「内藤左膳済民」と「内藤此面樹恒→★」
   
      ふたりとも若くして死没。養子も病のため御暇・家断絶。   
女子:秋夢童女
女子:幻質童女(市橋さんは「童子」と読んだが、やはり童女である。)
女子:つる、委細不明(嫁ぎ先等も)
女子:委細不明。名古屋養林寺に「花月露心信尼」の位牌。

前回(3)でみたように、瑞泉寺本堂には父の源左衛門と継母の祖庸、甥の此面樹恒の位牌がある。また、八男「第八」の墓碑は瑞泉寺の霊苑に、他の墓碑は別院に移されている。
これまで紹介できなかった墓碑のうち、丈草の義弟と義妹、従姉妹のもの4基紹介する。なおこれら以外に丈草との続柄が確認できない内藤家所縁の墓碑は次回にまわす。

       S
          七男 内藤甚蔵の墓碑
             碑銘「智嶽宗勇禪定門」
           没年:1706(宝永3)年


 
       V
          八男 内藤第八夫妻の墓碑
             碑銘「恱源曠怡居士」
               「要道妙玄大妹」
         両者の没年:1756(宝暦6)年
  *第八の墓碑は瑞泉寺墓苑にある。一族の墓碑ではこれのみ
   が墓苑に残された。なお碑の背面には「俗名内藤第八中」
   とある。
                   
       L
         丈草の義妹:「秋夢童女」
         没年:1675(延宝3)年


       J
         丈草の義妹 「幻質童女」
         没年:1678(延宝6)年

       N
       丈草の従姉妹:伯父平兵衛の子「まつ」
         碑銘「了雲院大虚慧明大姉」
         没年:1713(正徳3)年

参考文献(辞典等は省略)
1 県史、市史等
〇『愛知県史』 資料編 21 近世7 領主1 付属CD-ROM
〇『名古屋叢書』 続編 「士林泝洄」
〇『犬山市史』  別巻 文化財・民俗 (昭和60年)
〇『犬山市資料』 第二集(1985年)、第三集(1987年) 
                         犬山市教育委員会等編 
〇『瑞泉寺史』  横山住雄  思文閣出版 平成21年
〇『犬山視聞圖絵』
       ・『犬山市史』史料編4(近世上)所収 昭和62年
       ・国文学研究資料館:館蔵和古書目録データベース
    ・「日本名所風俗図絵 6東海の巻」所収 角川書店 1984年

2 市橋 鐸の論文・著作
〇『俳人丈艸』   白帝書房 昭和5年
〇『丈艸聚影』   第一輯 俳諧史研究會 昭和6年
〇『丈艸伝記考説』 愛知県立女子大学国文学会 昭和39年
〇「丈艸遺跡巡礼」をはじめとする諸論文・紀行文など

3 柴田貞一の論文・著作
〇「内藤丈艸傳新考-犬山成瀬藩家中之者由緒書及犬山古図より-」 
         『郷土文化』(名古屋郷土文化会)
                           昭和26年7月号 所収
〇「内藤丈草とその一族」『日本歴史』(日本歴史学会)  
                           昭和26年11月号 所収
〇「内藤丈草の傳記史料」『日本歴史』(日本歴史学会)  
                          昭和28年10月号 所収
〇「犬山城物語」 『犬山市資料 第三集』所収 昭和62年  

4 その他
〇「享保年御改家中之者由緒書」
  これについては、市橋、柴田両氏の文献等を参考にしており、
  由緒書の原本は実見していない。
〇『蕉門俳人年譜集』 石川真弘 前田書店 1982年
〇『蕉門俳人書簡集』 飯田正一 桜楓社  昭和47年
〇「肖像と伝説 -市橋鐸・林輝夫師弟の内藤丈艸像蒐集から」
           高木史人『口承文芸研究』第36号 2013年

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2020年9月26日 (土)

内藤丈草一族の墓碑(3)

今回は丈草のふたりの母について。

(1)でも記したが、江戸時代の内藤家の菩提寺は犬山の瑞泉寺塔頭「南方庵(菴)」であった。だが南方庵は明治になって廃寺となり今はない。昭和初期に市橋鐸氏が墓地踏査したときに、全部で内藤家25基の墓碑が墓苑の一区画にまとまってあったことは確認されており、それらはつい10数年前まで墓苑内にあったようだ。
しかしそれから現在までの間に墓地整理などがあり、これらの墓石の大半は市内の別の場所に移され、瑞泉寺本堂に隣接する現在の墓苑には、八男の内藤第八夫婦の墓石1基だけが残されている(この「第八」については次回に)。

丈草の生母は「妙順」らしいというのが市橋さんの推理である。内藤恒右衛門(次男)の末裔の方から、「寛文4年8月14日 妙順」の位牌がある旨市橋さんが聞いている。だがかつての内藤家の墓地にその墓は確認できなかった。しかし没年などから推理し、この妙順こそ丈草の生母にちがいないというのが市橋さんの結論であった。その没年は丈草三歳のころであることから、丈草にとって生母の面影もおぼろげなものであっただろう。
丈草は39歳の元禄13年3月下旬に犬山へ帰郷し、さらに美濃(関、加治田、蜂屋、深田など)、名古屋、大垣などに立ち寄っている。帰郷の主な目的は、母の37回忌の墓参のためであったと考えられ、その年に犬山で詠んだとされる句がある。もちろん精霊はすべての先祖を含めるが、この句では生母の霊とみるほかない。

精霊にもどり合わせつ十とせぶり 丈草 『そこの花』

生母「妙順」の没後数年してから父源左衛門は後妻をむかえた。名は「祖庸」。丈草が父母に孝を尽くしたことは、前回見た手紙でもわかるし、もちろん亡き生母への恩愛は上の句で痛いほどわかる。

継母「祖庸」の墓碑は現在見ることができる。
碑銘は「歸元中巖祖庸大妹」で享保三年に亡くなっている。それは父(夫)源左衛門の没後11年、丈草の没後14年目のことであった。市橋さんは「祖庸」の位牌を瑞泉寺本堂で確認したと記しているが、自分も一度それを見たいと思っていたところ、最近瑞泉寺を訪れたとき位牌を拝見する機会があった。

市橋さんは内藤家の位牌が瑞泉寺には父母のもの一つしかなかったと書いているが、探してみると内藤家の位牌は実は2つあった。
一つの位牌は父と母「祖庸」のものである。家紋は「下り藤」。
 表:體然好本信士 (好本は隠居名)
   中嚴祖庸大姉
 裏:宝永四丁亥年九月八日 俗名内藤源左衛門本守
   享保三戊戌年六月六日 祖庸
もう一つの位牌は丈草の甥(八男第八の子)内藤此面樹恆(恒)のもの。
 表:義山道智居士 元文四巳未年五月五日
 裏:俗名内藤此面藤原樹恒 
この樹恒の墓碑も現存している。

次回からも、これまで紹介できなかった墓碑をさらにみる。
 Photo_202007152148011f
   継母「祖庸」の墓碑       甥「内藤此面樹恒」の墓碑
  「歸元中巖祖庸大妹」       「義山道智居士霊位」
   1772(享保5)年没        1739(元文4)年没
        どちらも 2019/6/19撮影(犬山市内)   

 

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